徒然青史

ツレヅレセイシ...戦国史好きでオタクなIT屋さんの日常絵巻

菊の節句

9月になりましたね。

涼しくはあるのですが、日本には2つの台風が迫っているという、まさにこの時期特有の気象ですね。

ちなみに昔は台風を含む暴風のことを「野分」と呼んでいました。

「野の草を吹き分ける強い風」という意味で、古くは源氏物語にもその記載があったりします。

 

そんな、9月9日。

皆様は、「菊の節句」をご存じでしょうか?

良く知られているのは桃の節句端午の節句だと思いますが、実は節句は5個あるんです。

1月7日 七草節句、人日

3月3日 桃の節句、上巳

5月5日 菖蒲の節句端午

7月7日 七夕の節句、七夕(しちせき)

これに続くのが、本日9月9日の菊の節句重陽です。

 

そもそも、元々節句が何の日かというと、奇数の重なる不吉な日にそれを払う行事を行っていたものが始まりです。

それがいつしか祝いの日に代わり今日に至っています。

節句はわかったけど、じゃあ菊の節句って具体的に何をする日なの?と思う方もいらっしゃるかと思います。

 

菊の節句にも菊の花を使った様々な風習があります。

その名の通り菊の花に関連したものなのですが、菊の花を飾り、菊花を浮かべた酒を飲み交わしたり、菊の上に綿を置いて露を染み込ませたもので身体を拭う等、様々なことが行われていました。

 

現在ではあまり取り上げられない節句

あいにくの天気ですが、菊の花を浮かべたお酒を嗜んでみるのはいかがでしょうか?

男社会で戦い抜いた女地頭

ご無沙汰しております。

来年の真田丸に思いを馳せすぎてまだ9月になったばかりという事実に唖然としているあーすです。

 

そして大河といえば、再来年の大河が決定しましたね!

おんな城主 直虎

今からとても楽しみです!!(あーすさん、まだ2015年ですよ!)

 

なのでさっそく、再来年の大河の主人公に思いを馳せてみたいと思います。

 

井伊直虎公。

 

実際、あまりご存じない方のほうが多いんじゃないかと思うんですが。

江戸時代の大老井伊直弼のご先祖様って言ったらなんとな~くわかるのではないかな、と思います。

ちなみに、"直虎"という名前ではありますが、実は女性で、未婚で、井伊家の実質当主として徳川家に仕えていた方なんです。

当時としては異例なんではないでしょうか?

では、なぜそんな人生を歩んでいらしたのか、簡単にご紹介してみようと思います。

 

 

直虎公のご両親には一人娘しか生まれなかったそうな。

そう、つまり後の直虎公一人だったんですね。

なので、後継ぎとして親族から許嫁を設けたのですが、時は乱世。

許嫁の父が、当時仕えていた今川義元への謀反の疑いで自害へ追い込まれた際に領地を脱出してしまったんです。

その後10年ほどが経過して許嫁が領地へ戻ってくるのですが、その時すでに相手には妻子があったとか。

この事件のせいで、直虎は婚期を逃したと、言われているんですね。

 

 

その後、歴史の教科書には必ず記載のある桶狭間の戦いで父を失い。

直虎公の父の後をついで井伊家当主になっていた直虎公の元許嫁も今川氏に殺害され、また家臣の謀反に合い領地まで奪われてしまうんです。

 

そんなことがありながらも周囲の助けを借り、直虎公が女性ながら井伊家の当主になります。

当主になった直虎公、同じく今川氏に怯え暮らしていた元許嫁の子、虎松(のちの直政公)を養子として育て、家康公に仕えさせます。

関ヶ原の戦いで活躍した井伊の赤備え、もしかしたら聞いたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

これが、江戸以降続く井伊家の反映の始まりだったのかもしれませんね。

 

 

ちなみに、直政公が家康公に仕えたころ、井伊家の旧領は家康公によって戻されたんですが、実は直虎公に戻されたのではなく直政に与えられたものだと言われています。

しかし、直虎公は亡くなるまで井伊家当主を務めあげ、直政公が正式な当主となったのはその死後でした。

もしかしたら、不遇の時を耐え、がむしゃらに走り続けた直虎公のプライドが、そこにはあったのかもしれません。

 

直虎公は現在、浜松市内のお寺で、元許嫁の隣に静かに眠っているそうです。

 

そんな直虎公の大河が、待ち遠しくて仕方ありません。(もちろん真田丸もとても楽しみです!)

敵対してもなお弟を思っていた兄

お盆、月遅れ盆などとも言ったりしますが、世間一般にはちょうどお盆休み期間が終わる頃でしょうか。
働きに地方から出てきている人なんかは里帰りして親兄弟と過ごしているのかな?
と、いつもより空いている電車の中を見渡しながら考えたりするわけです。
 
ところで兄弟といえば、先日ご紹介した真田幸村公に、お兄さんがいたことはご存じでしょうか。
 

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戦国無双の刀剣展in戦国の聖地上田 より、紙で作られた真田信之公具足レプリカ

(先日どこに行っていたのかばれましたね)

今日は、幸村公のお兄さんである真田信之公についてご紹介してみようと思います。
 
幸村公が次男でしたので、信之公は真田家の長男として生まれました。
元々真田家は甲斐武田家に仕えていたため、信之公は最初武田家の人質として過ごします。
しかし織田信長公との戦いにより武田家(宗家)が滅ぼされた際、上田の真田家に戻ります。
ここから紆余曲折あり真田家が豊臣家に従事し、家康公と秀吉公が小牧長久手の戦いを経て講和したころ、信之公は妻を娶ります。
その相手が、徳川四天王が一人本田忠勝公の娘、小松姫でした。
これにより、信之公は徳川家の家臣となります。
ということは。
そうなんです、信之公、この後に起こる関ヶ原の戦いにおいて、実父と弟と敵対しているんです。
しかも、当時信之公は徳川秀忠公の軍に属していたため、上田城で直接肉親と戦っているんです。
その後幸村公とその父は敗戦の将ながら、信之公の嘆願により流刑となります。
先日のブログでも書きましたが、結局は幸村公とは大阪の陣で生き別れてしまうのですが。。。
そうして江戸幕府が開府されると、信之公は松代の初代藩主となります。
上田から松代に移されたのは、関ヶ原で遅参し辱めを受けた秀忠公の腹いせだったとされているのですが、普段温厚だった信之公がこのときばかりは怒り、重要書類を処分し上田の植木や灯篭をすべて抜いて松代に移した、なんていう逸話も残っていたりします。
 
仕える主家によって袂を分かってなお自分の家や領地を大事に思っていた信之公。
皆様も、折角のお盆にご先祖様と合わせて、改めて家族について振り返ってみるのはいかがでしょうか。

三途の川の渡し賃

暑い日が続く中とうとう8月に突入しましたね。

熱中症は意外と室内でも起こりやすいらしいです、皆様ご注意ください。

さて私はといえば、そんな暑い最中にフラリと信州は上田に行ってきました。

理由は、某ゲームの特別展が行われていたからという非常に不純なものですが。

 

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 <上田駅お城口 真田信繁(幸村)像>

 

ということで、今回は上田にゆかりがあり、来年には大河も控えている真田信繁公を紹介してみたいと思います。

真田信繁公・・・どちらかというと幸村という名前で親しんでいる方のほうが多いかもしれません。

関ヶ原にて勝利を収めた家康公を以て「日ノ本一の兵」と言わしめた人物です。

今回は広く知られているであろう"幸村"と名前を統一してお話したいと思います。

 

幸村公は真田家の次男として生まれました。

元々真田家が仕えていた武田家の滅亡に伴い、この頃真田家の主君が目まぐるしく変わっています。

幸村公が20歳を迎える少し前には、旧武田領地を巡り北条家,徳川家,上杉家で争いが起こっていますが、その際に幸村公は上杉家に人質として赴いていました。

当時仕えていた上杉景勝公は豊臣秀吉公に仕えており、幸村公は小田原攻めの際に、先日紹介した石田三成公と共に忍城攻めに参戦しています。

 

その後起こる関ヶ原の戦いですが、本田忠勝公の娘を嫁に迎えた兄である信之公が東軍として参加しているのに対し、西軍に組し上田での籠城戦を行っています。

上田での戦いは徳川秀忠公の足止めを成功させていますが、ご存じのとおり関ヶ原では西軍は大敗。

幸村公は、信之公と本多忠勝公の計らいで死罪を免れ九度山に流されました。


しかし、戦に生きる武者に山での穏やかな暮らしは合わなかったのでしょうか。

大阪にて豊臣家が発起すると幸村公は九度山を脱出、大阪城真田丸と呼ばれる出城を築き、大阪冬の陣に参戦します。

その際、徳川家康公は幸村公に対し真田家の親族を使者に送り「十万石を授ける」、「信濃一国を与える」等再三の寝返りを説得します。

しかし幸村公、「この信繁、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と、最後まで寝返りに首を縦に振らなかったと言います。

その後に勃発した大阪夏の陣にて敗走、最後は徳川方の将に見つかり「わしの首を手柄にされよ」との言葉を残し、幸村公は48歳(諸説あり)でこの世を去ります。

 

真田の家紋六文銭とは、三途の川の渡し賃と言われ、「身や命をささげて惜しまないこと」を意味しています。

豊臣家への忠誠を貫き、最後まで武者として散っていった幸村公。

 

自分の生きる道を信じて突き進む心の強さ、あやかりたいものです。

神に斎(いつ)く島

海の日を含んだ三連休、皆様いかがお過ごしだったでしょうか。
私はといえば、ふらりと赴くは神の島、安芸の宮島にお邪魔してきました。

厳島(宮島):広島県廿日市市宮島町

宮島と言えば、日本三景の一つであり厳島神社(正しくは嚴島神社)を構える神の島。
今でこそ地元の人も暮らし、多くの観光客を迎える島になっていますが、かつては神が住まう島として人間の立ち入りは厳禁でした。
厳島神社の本来の参道は海。
だからこそ、厳島神社は海の上に立てられていて、鳥居も海側に立っているんですね。
海側から船で鳥居をくぐり、鳥居に向かって伸びた回廊から神社に入りお参りしていたんです。
今は宮島口からフェリーが出ていて、桟橋からゆるりと続く参道を歩いて社に向かうことができます。
ちなみに、海に立つ大鳥居、陸側と海側で「いつくしまじんじゃ」の漢字が違ったりします。

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<干潮時、海側から撮影した大鳥居>

せっかくなので、そんな神の島を舞台にした戦いについて一つご紹介しましょう。
厳島の戦い毛利元就陶晴賢が起こした合戦です。

当時、大内家に仕えていた毛利元就は、主君大内義隆を打った陶晴賢と対立していました。
いくつかの小競り合いの後、陶は2~3万の兵を率いて厳島に陣を張ります。
対する毛利は4~5千足らずの兵のみ。
圧倒的不利の中、大時化かつ暴風雨の中、毛利元就は包ヶ浦から厳島に上陸します。
海辺の陶軍を囲むように厳島の山中に身を潜め、早朝よりかけた奇襲により毛利軍の圧勝であったとか。

この時、奇襲前夜の暴風雨の中、明かりも使えない毛利軍を山中に案内したと言われているのが、当時すでに島に住んでいた鹿なんです。
神をも味方につけた毛利軍、後々謀神と言われるのも納得できる気がします。
この戦いの後、血で汚れた神社を洗い清めた元就公。
その後も様々な人々に大切にされ、今の厳島神社があります。

神に斎く(いつく = 仕える)島厳島
歴史息づく街に皆様も一度、足を運んでみてはいかがでしょうか?

大一大万大吉の旗印

先日、定期的に同僚と開催している飲み会でこちらにお邪魔しました。

戦国武勇伝 ―武将個室 新宿―
かなりのヘビーユーザーなのですが、いつも2人くらいで行くので、久々の個室でした。
個室が毛利の部屋に当たったのでそこでもご機嫌だったのですが。
いざ着席して、自分の目の前のコースターを見た途端振り切れました。

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大一大万大吉石田三成公の旗印です!
西軍贔屓な私は例に漏れず三成公も好きなわけでして。
せっかくなので今日は三成公がどういう人物だったのかについて少し触れてみようと思います。

近江で生まれた三成公は、諸説ありますが石田家次男だったために寺に預けられており、そこで後の天下人となる秀吉公と出会ったと言われています。
三献茶の逸話はかなり有名なので知っている方も多いかと思いますが、鷹狩りの帰りに喉の渇きを覚えた秀吉公は立ち寄った寺で小姓に茶を所望します。
その小姓は、初めは大きい茶碗にぬるいお茶を、さらに茶を所望した秀吉公に二杯目は少し小さい茶碗に先より温かい茶を、さらに所望した秀吉公に三杯目は小さい茶碗に熱々のお茶を用意したそうです。
三杯のお茶を堪能した秀吉公に、何故お茶の量と熱さを変えたのか問いかけたところ、「喉の渇きを潤すための温いお茶、渇きが癒えた後はお茶を味を楽しめるよう熱いものを用意した」というのです。
この小姓の心配りと知恵に感銘を受けた秀吉公はこの小姓を連れ帰ります。
それが後の三成公だと言われています。

先に上げた「大一大万大吉」とは、「一人が万民のために、万民が一人のために力を使えばすべての人が吉(幸福)となり、太平の世が訪れる」という意味があります。
関ヶ原の折には家康公と対立し、大きな戦を仕掛け、今なお大逆人として扱われることの多い三成公。
人望が無い、傲慢。
よくそのように伝えられていますが、私は三献茶の逸話や最後まで共に戦った人物の存在から、三成公をそんな悪い人物だとは思えないのです。

三成公の周りの人物と共に、また折に触れて逸話など紹介できたらと思っています。

七夕

本日、7月7日は七夕です。
七夕と言えば、笹飾りに願い事を下げ、織姫と彦星に思いを馳せる…といったところでしょうか。
一部地域では七夕に素麺を食べると病知らずという言い伝えもあるらしいですね。
(残念ながら私の住んでいる地域はそういった話は無く…それを知ったのはつい最近のことですが)

ところで。
現代の七夕の風習が定着したのは明治時代ごろで、割と最近なんですよね。
そもそも、昔の七夕というのは旧暦の7月7日といえば、現代だと8月15日ごろ、お盆なんですね。
精霊棚と幡を安置し先祖供養と合わせて、これから来る実りの季節への五穀豊穣祈願を行ったのが七夕行事だったそうです。
昔は「七夕」ではなく「棚幡」と表記していたことからも伺えますね。

例年に漏れず今年もあいにくの天気となりそうですが、昔から続く七夕の歴史と織姫彦星に思いを馳せつつ、素麺を食べてみてはいかがでしょうか。