徒然青史

ツレヅレセイシ...戦国史好きでオタクなIT屋さんの日常絵巻

敵対してもなお弟を思っていた兄

お盆、月遅れ盆などとも言ったりしますが、世間一般にはちょうどお盆休み期間が終わる頃でしょうか。
働きに地方から出てきている人なんかは里帰りして親兄弟と過ごしているのかな?
と、いつもより空いている電車の中を見渡しながら考えたりするわけです。
 
ところで兄弟といえば、先日ご紹介した真田幸村公に、お兄さんがいたことはご存じでしょうか。
 

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戦国無双の刀剣展in戦国の聖地上田 より、紙で作られた真田信之公具足レプリカ

(先日どこに行っていたのかばれましたね)

今日は、幸村公のお兄さんである真田信之公についてご紹介してみようと思います。
 
幸村公が次男でしたので、信之公は真田家の長男として生まれました。
元々真田家は甲斐武田家に仕えていたため、信之公は最初武田家の人質として過ごします。
しかし織田信長公との戦いにより武田家(宗家)が滅ぼされた際、上田の真田家に戻ります。
ここから紆余曲折あり真田家が豊臣家に従事し、家康公と秀吉公が小牧長久手の戦いを経て講和したころ、信之公は妻を娶ります。
その相手が、徳川四天王が一人本田忠勝公の娘、小松姫でした。
これにより、信之公は徳川家の家臣となります。
ということは。
そうなんです、信之公、この後に起こる関ヶ原の戦いにおいて、実父と弟と敵対しているんです。
しかも、当時信之公は徳川秀忠公の軍に属していたため、上田城で直接肉親と戦っているんです。
その後幸村公とその父は敗戦の将ながら、信之公の嘆願により流刑となります。
先日のブログでも書きましたが、結局は幸村公とは大阪の陣で生き別れてしまうのですが。。。
そうして江戸幕府が開府されると、信之公は松代の初代藩主となります。
上田から松代に移されたのは、関ヶ原で遅参し辱めを受けた秀忠公の腹いせだったとされているのですが、普段温厚だった信之公がこのときばかりは怒り、重要書類を処分し上田の植木や灯篭をすべて抜いて松代に移した、なんていう逸話も残っていたりします。
 
仕える主家によって袂を分かってなお自分の家や領地を大事に思っていた信之公。
皆様も、折角のお盆にご先祖様と合わせて、改めて家族について振り返ってみるのはいかがでしょうか。