諫言を恐れぬその度量
すっかり秋めいてきましたね。
私は先日地元の神社に行って、御神木の紅葉を見てきました。(御神木、大きな大きな銀杏なんです)
皆様はもう紅葉はごらんになったでしょうか。
さて、紅葉とはあまり関係が無い内容になってしまいましたが、今回はこの方をご紹介してみようと思います。
竹中 重治 公 (通称:竹中 半兵衛)
(重治公、後に孝高公に軍配を送ったりもしているそうですよ)
黒田孝高公(黒田官兵衛)と並び、豊臣の両兵衛と言われることも多い重治公。
ところが「信長公記」など当時の資料にその記述が少なく、その本人像は実はいまだ謎に包まれている部分が。
不明な部分が多いとはいえ、現在持たれているイメージの通り軍略の才があったのは確かなようで、わずか13才の時に起きた長良川の戦いの際には、父が不在の隙を狙って城へ攻め入ってきた斎藤義龍公の軍勢を母,弟と共に撃退しています。
智略に長けた逸話が多い重治公ですが、その中から1つご紹介してみようと思います。
重治公が仕えていた美濃の斎藤龍興公は政務に関心を持たず、重治公を含む先代からの家臣を軽んじ、酒や女に溺れる日々だったのです。
斎藤家の行く末を案じた重治公、弟と共謀してひとつ策を講じます。
とある日、弟が寝込んだと一報を受けた重治公は、医療器具や薬の類を入れた長持ちを用意し、供の者14名と稲葉山城へ見舞に訪れます。
ところが、実は弟が寝込んだというのは大嘘。
弟は重治公より「仮病を使え」と指示されていたのです。
この時、城内では重治公は見舞いに来たと皆が油断していたためまともな対応が出来ず。
重治公に弟,供の者14人という総勢たった16人に、あっという間に城は占拠されてしまいました。
稲葉山城を手に入れ無能な主君も追い出しシメシメ…と終わるかと思いきや。
占拠から半年後には、自分の非を認め謝罪をしてきた主君龍興公に対しすんなりと稲葉山城を返還しているんです。
しかも、返還までの間、織田信長公より「美濃半国をくれてやるから稲葉山城を明け渡せ」と交渉されたにも関わらず、重治公は「別に領地が欲しいわけではない」とこれを断っているのです。
では何故、重治公は龍興公から稲葉山城を占拠したのでしょうか。
実は、すべて龍興公と斎藤家の行く末を案じた重治公の諫言だったのです。
だからこそ信長公からの交渉を断り、龍興公の謝罪を受け入れたのですね。
ちなみに重治公、この後すぐに隠棲してしまいます。
目上の人への諫言、なかなか簡単に言えるものではないですよね。
それを、自分の地位を顧みずに行える勇気、頭の良さ、尊敬します。
重治公には他にも逸話が多々あるので、またお話しできたらと思います。