徒然青史

ツレヅレセイシ...戦国史好きでオタクなIT屋さんの日常絵巻

天下人に恐れられた智の武将

こんばんは、二十四節気の大雪を過ぎていよいよ本格的に寒くなって来た頃、皆さま如何お過ごしでしょうか。

私はと言えば先日、ひょんなことから急きょ大分に行ってきました。

 

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(実は飛行機が大の苦手なのですが、どうにかこうにかがんばりました。。。)

 

大分と言えばと思いを馳せつつ、今日はこの方に迫ってみようと思います。

(厳密にいえば私が訪問したのは別府で、この人物にゆかりがあるのは中津なんですけどね…)

 


黒田 孝高 公 (通称:黒田官兵衛)

 

以前大河ドラマにもなっているので知っている方も多いのではないでしょうか。

上で記載した以外にも如水という名前も知られているかもしれません。

 

秀吉公の軍師として有名ですが、実は最初から秀吉公に仕えていたわけではありません。

最初は播磨の小寺家に仕える外様大名でした。

転機が訪れたのは天正3年頃、当時播磨は進出してきた織田に付くか、安芸を治める毛利に付くか意見が二分していました。

この時、織田方を推していたうちの一人が孝高公でした。

さすがは軍師、先見の明があったのかもしれませんね。

その後は小寺家と離別(どうやら孝高公のほうが小寺家に裏切られてしまったよう…)、織田家臣となり、秀吉公に仕えるようになったようです。

 

実は、秀吉公が天下を取れたのは孝高公のおかげ…という見方もあるのです。

(もちろんこれにも諸説あります)

 

天正10年、歴史の教科書にも必ず登場する本能寺の変、毛利の支城高松城を攻めていた秀吉公に信長公横死の知らせが届きます。

その際、突然主を失い取り乱した秀吉公に対し、孝高公はこう言ったそうです。

 

「御運が開かれる機会が参りましたな」

 

秀吉公はこの言葉を聞き、冷静さを取り戻すと同時に孝高公の智略を恐れるようになった、と言われています。

その後、孝高公の助言を受け秀吉公は毛利家と和睦、急いで京へ取って返し山崎にて謀反人、明智光秀公を討ちました。

これが有名な中国大返しですね。

この後秀吉公は天下人として進んでいくことになりますが、その後も先の本能寺での一件により孝高公を恐れていたといいます。

ある時、秀吉公は家臣たちに「自分の次に天下を治めるのは誰だと思うか」と問い、徳川家康公や前田利家公の名前が挙がる中、「官兵衛がその気になればあっという間に天下を取るだろう」と言ったそうです。

それを聞いた孝高公はすぐさま剃髪し、自分に天下を狙う心づもりは無いことを示しています。

如水と名乗り始めたのもこの頃のようです。

 

ところで。

秀吉公が実際に孝高公を恐れていたかは現存する記録を元に推測することしかできません。

しかし、少なくとも孝高公自身は、家督を早々に息子に譲りながらも、秀吉公が亡くなるまで秀吉公に仕えています。
個人的には、そこに以前の記事でご紹介した、竹中重治公との絆があるのではないかと思っています。

 

実は孝高公、小寺家と離別する少し前、荒木村重公によって有岡城に1年ほど幽閉されています。

この時、孝高公が有岡城から戻らないのは荒木方に寝返ったからだと考えた信長公は、人質として預けられていた孝高公の息子松寿丸を処刑するように秀吉公に命じます。

しかし孝高公が裏切ると思えなかった秀吉公、この一件を重治公に相談します。

すると重治公、「この件は自分にお任せを」と言って松寿丸を預かり、処刑したと偽って自分の家臣の家に匿います。

孝高公が有岡城から助け出された後、重治公の機転と策によって息子が生きながらえたことを知るのですが、その時すでに重治公は病により陣没しているのです。

直接お礼を言えなかった孝高公、しかし、その重治公が命を賭して仕えた秀吉公の天下を支えることで重治公へのお礼をも兼ねていたのかな、と。

ちなみに孝高公と重治公の絆は、その息子たちにも受け継がれていたそうです。

 

2人の偉大な軍師が支え続けた秀吉公。

運も多大にあったのかもしれませんが、天下を取れたのにも頷けます。