徒然青史

ツレヅレセイシ...戦国史好きでオタクなIT屋さんの日常絵巻

佐和山の友のため奮戦した名将

11月に入ってすっかり日が短くなったなぁと感じているあーすです。

皆さま如何お過ごしでしょうか?

 

私はというと、先日、とあるイベントに合わせて念願の佐和山にお邪魔してきました。

f:id:earth-sonorite:20151109205410j:plain

佐和山城址と佐和山一夜城

 

415年前、ここに佐和山城が建っていたんだなぁと考えたら、妙に感慨深かったです。

そんな今日は、元佐和山城主三成公の友人について触れてみたいと思います。

 

大谷吉継

 

私は有名な武将だと思っているのですが、どうなのでしょう?

石田三成公の親友であり、豊臣秀吉公においては「100万の軍勢を指揮させてみたい」と言わしめた人物です。

 

1570年頃に秀吉公の小姓となった吉継公、その名が歴史に現れたのは秀吉公が拠点を姫路に移した頃のようです。

当時、秀吉公の馬廻衆だったんですね。

同僚…と呼ぶのが正しいのか微妙ですが、この頃の馬廻衆には福島正則公、加藤清正公、仙石秀久公といった、後の大大名もいました。

そして賤ヶ岳の戦いにて、七本槍には選ばれなかったものの、先懸衆として三成公と共に大手柄を挙げたそうです。

 

ところで吉継公、このブログで度々話題にも挙げている関ヶ原の戦いでは、西軍として参陣しているのですが。

実は、吉継公は家康公とも親しい間柄でした。

関ヶ原の戦いが起きる少し前、家康公に謀反の疑いを懸けられた会津の上杉討伐に、吉継公も向かっていたのです。

途中立ち寄った佐和山城で、三成公から家康公への挙兵の話を持ち掛けられました。

その際、「無謀すぎる、勝機はない」「お前は横柄だから本来味方であるべき人物も内府(家康公のこと)に組するだろう」「知慮才覚は天下に並ぶ者もいないが、勇気もないし決断力にも欠けている、大将の器ではない」と、本人を前にして随分と辛辣な忠告をしたとか。

それでも最終的には三成公の熱意に押され、西軍に組することに決めたのだそうです。

 

では何故、戦う前から結果が見えていたにも関わらず、吉継公は三成公についたのか。
それは、秀吉公存命の際に開かれたお茶会まで遡ります。

 

大阪城で開かれたお茶会の際、客人は茶碗に入ったお茶を回し飲みをしていました。

ちなみに余談ですが、濃茶の回し飲みは「吸い茶」といい、千利休が始めたとされています。

話を戻してお茶会、この時皮膚病を患っていた吉継公がお茶を飲む際、顔から膿が茶碗に落ちてしまったため、参列していた諸将は以降そのお茶を飲むのを躊躇い飲むふりだけをしていました。

そんな中、三成公は平然と茶を飲み干し、「美味しくて全て飲んでしまった。もう一杯茶を戴きたい」と言ったとか。

その後も他の皆が吉継公を敬遠する中、三成公だけが気軽に話しかけて行ったそうです。

 

そんな出来事があったからこそ、友情よりも損得が優先されていた戦国の世にあっても、吉継公は友情を優先させたのでしょうか。

その真意は今となっては曖昧ですが、関ヶ原当日西軍内は西軍は日和見や裏切りが相次ぐ中、病で目も不自由であった吉継公とその軍勢は、それでも最後まで奮戦していたといいます。

 

あけすけに物を言いつつも支え合える間柄、なんだか素敵ですね。

私は余計なことばかり言ってしまいがちなので、二人のエピソードを振り返り一呼吸おいてみたいと思います。