志の行方
10月に入りました。
本日1日、旧暦ではありますが、厳島の戦いが起こった日。
そして、石田三成公、安国寺恵瓊殿、小西行長公の3名が京都の六条河原で処刑された日です。
厳島の戦いから処刑の日まで、およそ45年。
当時の人の寿命に近しい年の間、争いが続いていたんですね。
ちなみに、石田三成公が生まれた時分にはすでに時は戦乱の世を迎えていました。
平和な時代をほとんど知らずにその命を散らしていったのかと、思いを馳せたりしておりました。
さて。
先日は少し熱がこもりすぎて長いブログになってしまったので、今日は三成公の最後の日の逸話から少し紹介したいと思います。
三成公といえばお茶のイメージ・・・お抹茶の写真とともに。
その日、三成公は六条河原まで、市中引き回しされていました。
その際に喉の渇きを覚えた三成公、近くにいた警護の兵に白湯を求めますが、持ち合わせの水が無く「柿ならある」と言われます。
三成公は「柿は痰の毒である」と答えるのです。
痰の毒というのは、肝の毒という意味で、当時柿は東洋医学で腹を冷やすものだと認識されており、三成公は一切口にしなかったと言われています。
しかし、三成公はまもなく処刑されるはずの人間。
当然警護の兵も「もうすぐ斬首される人間が何を言うか」と笑ったといいます。
これに対し三成公が返した言葉が「大志を持つ者は、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」という言葉でした。
抗えぬ運命に翻弄されながらも、最期まで諦めずにいた三成公の意思の強さが滲む言葉だと思います。
敗戦の将として散っていった三成公。
しかし、家康公と実はお互い認め合っていた、という説もあったりします。
また、家康公の次男である結城秀康公は、敗戦の敵将三成公から譲り受けた石田正宗という刀を、後生大事に持ち続けてたという逸話もあったりします。
その後続いた江戸幕府、実は三成公の志は、もしかしたらひっそりと受け継がれていたのかもしれません。