9/15と彼岸花
本日、9月15日。
西軍贔屓な戦国史好きの自分にとっては感慨深い日です。
旧暦ではありますが、415年前の本日この日、日ノ本を二分する大きな戦いが起こりました。
そう、関ヶ原の戦いです。
深い霧の中、午前8時に始まった戦いは夕刻を迎える頃、西軍の敗戦で決着がつきました。
逃げ延びた石田三成公も後に捕縛され、後日京都で処刑されます。
その少し前、命を懸けて三成公を守らんとした一人の猛将が存在したことをご存じでしょうか。
今日は関ヶ原の合戦に思いを馳せつつ、その人物についてご紹介したいと思います。
島 清興公(通称:島 左近)
記憶違いでなければ、歴史の教科書にも中々登場しない方だと思います。
清興公は、大和国出身で畠山家臣,筒井家臣を経て石田三成公に仕えた武将です。
とはいっても出身が判明したのも割と最近、更には畠山氏から筒井氏へ士官先が変わった時期も、その後三成公に仕え始めた時期も実は曖昧なんです。
わかっていることは筒井家で重臣であったにも関わらずその地位を捨てて牢人となり、その後三成公に士官して関ヶ原を迎えていることです。
当初仕えていた畠山氏没後筒井家へ仕えていた清興公ですが、主が病に倒れた後に後継ぎとなった人物と折が合わず、重臣であったにも関わらず主家を去ります。
その後は大和の寺院に身を寄せながら点々と牢人生活を送っていました。
そんな折、清興公に士官の要請をしたのが三成公です。
それまでにも多くの士官要請を断っていた清興公、当然三成公からの要請も当初断りますが、三成公からの再三の説得により最終的には応じます。
当時4万石だった三成公の禄高のうち半分である2万石と三顧の礼で迎えられ、「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と吹聴されるようになった三成公側近、島左近の誕生です。
(清興公を召し抱えた時期や当時の三成公の禄高には諸説ありますが、いずれにしても破格の待遇でした)
そんな清興公、三成公への忠義を思わせるちょっとした逸話があったりします。
関ヶ原の戦いが起こる前、他国の武将へ家康公からの調略が横行する中、旧知である柳生宗矩公が清興公の元を訪ねます。
趨勢は明らかに家康公に傾いている今、清興公も徳川方につくべきだと進言するために。
それに対し、確かに世は徳川方に有利に動いている、戦が起これば負けるだろう、しかし己の主は三成公だと意思を変えなかったと伝わっています。
そうして迎えた関ヶ原の合戦では、合戦冒頭で黒田長政公率いる鉄砲隊から襲撃を受け一時前線から下がったものの、小早川秀秋公らの寝返りにより西軍が総崩れとなった際は再び出陣し、正面に居座る軍勢に突撃していったそうです。
その時突撃を受けた軍に居た人々は、合戦後も鬼気迫る清興公を夢に見てはうなされていたとか。
実際に寝返りを進言された際に清興公が何を思っていたのかは、今となってはわかりません。
でも、最期まで己が主の敵へ向かっていった姿に答えがあるのではないでしょうか。
ちなみに、現在の関ヶ原合戦場跡の地域では、ちょうどこの時期に咲く彼岸花に別名があったりします。
数年前東北で撮影した彼岸花 (ぶれているのはご愛嬌でお願いします)
その名も左近花。
関ヶ原の合戦で島の左近が流した血の赤だ、と言われているそうです。
今でも花にその名を遺す勇将、咲き誇る彼岸花と共に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。