三途の川の渡し賃
暑い日が続く中とうとう8月に突入しましたね。
熱中症は意外と室内でも起こりやすいらしいです、皆様ご注意ください。
さて私はといえば、そんな暑い最中にフラリと信州は上田に行ってきました。
理由は、某ゲームの特別展が行われていたからという非常に不純なものですが。
ということで、今回は上田にゆかりがあり、来年には大河も控えている真田信繁公を紹介してみたいと思います。
真田信繁公・・・どちらかというと幸村という名前で親しんでいる方のほうが多いかもしれません。
関ヶ原にて勝利を収めた家康公を以て「日ノ本一の兵」と言わしめた人物です。
今回は広く知られているであろう"幸村"と名前を統一してお話したいと思います。
幸村公は真田家の次男として生まれました。
元々真田家が仕えていた武田家の滅亡に伴い、この頃真田家の主君が目まぐるしく変わっています。
幸村公が20歳を迎える少し前には、旧武田領地を巡り北条家,徳川家,上杉家で争いが起こっていますが、その際に幸村公は上杉家に人質として赴いていました。
当時仕えていた上杉景勝公は豊臣秀吉公に仕えており、幸村公は小田原攻めの際に、先日紹介した石田三成公と共に忍城攻めに参戦しています。
その後起こる関ヶ原の戦いですが、本田忠勝公の娘を嫁に迎えた兄である信之公が東軍として参加しているのに対し、西軍に組し上田での籠城戦を行っています。
上田での戦いは徳川秀忠公の足止めを成功させていますが、ご存じのとおり関ヶ原では西軍は大敗。
幸村公は、信之公と本多忠勝公の計らいで死罪を免れ九度山に流されました。
しかし、戦に生きる武者に山での穏やかな暮らしは合わなかったのでしょうか。
大阪にて豊臣家が発起すると幸村公は九度山を脱出、大阪城に真田丸と呼ばれる出城を築き、大阪冬の陣に参戦します。
その際、徳川家康公は幸村公に対し真田家の親族を使者に送り「十万石を授ける」、「信濃一国を与える」等再三の寝返りを説得します。
しかし幸村公、「この信繁、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と、最後まで寝返りに首を縦に振らなかったと言います。
その後に勃発した大阪夏の陣にて敗走、最後は徳川方の将に見つかり「わしの首を手柄にされよ」との言葉を残し、幸村公は48歳(諸説あり)でこの世を去ります。
真田の家紋六文銭とは、三途の川の渡し賃と言われ、「身や命をささげて惜しまないこと」を意味しています。
豊臣家への忠誠を貫き、最後まで武者として散っていった幸村公。
自分の生きる道を信じて突き進む心の強さ、あやかりたいものです。