徒然青史

ツレヅレセイシ...戦国史好きでオタクなIT屋さんの日常絵巻

短くも強く生きた、大阪方最後の幹

こんばんは。
各地で桜の開花宣言が相次いでいますね。
桜が大好きなので、今年はどこに撮影に行こうか思案中です。

さて。
今回は、前回のちょっと寄り道記事でも話題に上がったこの方をご紹介しようと思います。


豊臣秀頼

f:id:earth-sonorite:20160326204905j:plain 現在の関ヶ原・・・



幼名を拾丸と名付けられ東西の対立に散っていった、豊臣家最後の武将です。

 

秀頼公誕生の頃、実は秀吉公は既に関白の座を従兄の秀次公へ譲り、隠居先として伏見城を築城している最中でした。

そんな中、後継ぎとなりうる男児が生まれたため、秀吉公は何としても秀頼公を後継者とするべく模索します。

なんと秀頼公、生後2か月にして秀次の娘と婚約をさせられたのです。

しかし、その後謀反の疑いをかけられた秀次公とその一族が滅ぼされたことにより、この婚約は無効となりました。

※個人的には、この事件が諸大名の豊臣離れを加速させたのではないかと思っています。

 

その後、以前のブログ↓

絆を裂かれてもしなやかに生きた女性 - 徒然青史

でも紹介した千姫と婚姻を結ぶことになるのです。

そうして迎えた1598年8月、天下人であった秀吉公が亡くなります。

この時まだたったの5歳であった秀頼公、綻びゆく豊臣家を再びまとめるには、まだあまりにも幼かったのです。

 

1600年に起こった関ヶ原の戦い、徳川vs豊臣と思っている方も多いかもしれませんが、実はこの時、東軍も西軍も戦の大義を“秀頼公の御為”としていたのです。

ですので戦の後、秀頼公は家康公を忠義者として労っています。

そう、実は豊臣家と徳川家の仲は、決して悪くはなかったのです。

とはいえ、関ヶ原後に家康公は、豊臣家の領地を独断で各大名に分配して豊臣家の石高を減らしてしまったので、天下を狙っていたのは間違いないのかもしれません。

 

その後しばらく続いた西の豊臣、東の徳川が崩れ始めたのは、1611年頃のことでした。

二条城にて、ずっと行われていなかった秀頼公と家康公の会見が、とうとう実現したのです。

この頃秀頼公は18歳、190センチを超える大男に成長していたとか。

一説では、この会見の際に秀頼公の武将としての威厳を目の当たりにした家康公が、それ以降豊臣家討伐へと舵を切ったとも言われています。

 

1614年の大阪冬の陣、そして翌年の大阪夏の陣にて、秀頼公は21歳という短い生涯を閉じました。

大阪冬の陣の折、家康公からの和睦の申し入れを秀頼公は当初、反対していたと言います。

善戦していた冬の陣、もしかしたら秀頼公は、この好機を逃せば豊臣存続の道はないと、考えていたのかもしれません。

 

1980年に行われた大阪城三の丸跡の発掘調査で、人の手によって埋葬されたらしき3人と馬1頭の頭蓋骨が見つかっています。

内1人は、20歳前後、顎に介錯の際についたと思われる傷があったそうです。

 

幼少の頃から大きな決断を迫られ続けた秀頼公。

一体何を思い生き抜いたのか、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。