徒然青史

ツレヅレセイシ...戦国史好きでオタクなIT屋さんの日常絵巻

絆を裂かれてもしなやかに生きた女性

こんばんは。
だんだんと日が延びてきたことは実感しますが、暖かくなったり寒くなったり気温はまだまだ落ち着きませんね。
最近は、高熱の出ない種類のインフルエンザなんかも流行っているそうなので、体調には気を付けたいです。
 
さて。
先日、次は誰を紹介しようかと考えていたところ、歴女仲間に「奥方とかスポットに当てないの?」と質問されたので、それならばとこの方を紹介してみようと思います。
 
千姫
 

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<鎌倉:東慶寺で見られるさざれ石>
 
徳川秀忠公の娘、つまり、徳川家康公の孫に当たる人物です。
それだけ聞くと「なんだ、お嬢様か」って思う方もいるかもしれません。
けれど、実はこの方も、歴史の流れに翻弄され数奇な運命を辿ったお方なのです。
 
生まれは1597年の伏見城内徳川屋敷、お母さまは浅井三姉妹の一人、江姫でした。
この頃既に年老いていた秀吉公は、4歳になる秀頼公の将来をとても心配していました。
そこで白羽の矢が立ったのが、この千姫。
秀頼公の正室として姫を迎えることで、徳川家の全面支援を受けようと考えたのですね。
婚姻の儀が行われたのは千姫が2歳の折、直後に秀吉公は亡くなります。
それから5年後、7歳となった千姫は秀頼公の元へ嫁ぎました。
 
誰の目に見ても明らかな政略結婚でしたが、意外に秀頼公と千姫の仲は睦まじかったようです。
輿入れから9年後、16歳を迎えた千姫の鬢削の儀を、秀頼公自ら行っていたと次女の目撃談として記録に残っています。
鬢削の儀とは、今で言うと成人式のようなもので、女性は成人すると前髪を切り揃えていました。
二人の仲を引き裂いたのは、1614年と1615年に起きた大阪冬の陣、そして大坂夏の陣
家康公の命により千姫は助け出され、燃え盛る大阪城の中、秀頼公は自刃します。
 
その後千姫は、満徳寺への入山を経て、1616年本多忠勝公の孫に当たる忠刻公に嫁ぎます。
忠刻公との仲も睦まじかったそうですが、流産を繰り返し、1618年に勝姫、1619年に幸千代を授かるも、1621年に3歳という幼さで幸千代を失ってしまいます。
大阪の陣で死んでいった秀頼公の祟りだという噂が立ったため、伊勢神宮へ供養を依頼し、同時に男山へ天満宮を建立しました。
ところがその努力空しく、1626年に夫、義母、実母を立て続けに亡くしてしまうのです。
夫である忠刻公は、なんと31歳の若さでした。
 
これを機に勝姫と二人江戸に戻った千姫は、2年後に勝姫を嫁がせた後、竹橋で一人暮らしていました。
たびたび、勝姫が嫁いだ池田光政公の元へ娘や孫の顔を見に行っていたそうですが、千姫本人は一人のまま、1666年に70歳でその生涯を閉じています。
 
では、自分を祟ったと言われた秀頼公を、千姫は恨んではいなかったのでしょうか。
それを紐解くこんな逸話も残っています。

大阪城落城の際、捉えられた中には秀頼公と側室の間に生まれた幼い娘・後の天秀尼がいました。
本来であれば処刑されるはずだった天秀尼を、千姫は養子に迎え助命を嘆願します。
後にその娘は東慶寺の尼になっています。
江戸時代は女性の駆け込み寺(縁切り寺)として有名だった東慶寺、そこで起こった事件の際にも、天秀尼からの依頼で幕府方に口添えしています。
もし秀頼公を恨んでいたのなら、その娘を、養子といえど助けたりなどしたでしょうか。
 
幾度もつらい思いを経験しながらも、その穏やかさを失わなかった千姫のしなやかな強さ、見習いたいですね。
ちなみに鎌倉に残る東慶寺には、国家に登場するさざれ石も見れます。
一度足を運んでみては如何でしょうか。