徒然青史

ツレヅレセイシ...戦国史好きでオタクなIT屋さんの日常絵巻

己を律する寡黙な武将

こんばんは。
バタバタとしている間に今年も4分の1が終わってしまいました。
大河もとうとう大阪編ということで、今後に期待です♪

さて。
次は誰を紹介しようか、それとも人ではなく他のものにフォーカスしようか、など本当は色々考えていたのですが。
大河を見ていてテンションが上がってしまったため(とても不純な動機!)、この方を紹介してみようと思います。


上杉景勝
 

f:id:earth-sonorite:20160407195735j:plain この方は関ヶ原でなく会津で戦ったのですね。。。


上杉謙信公の後を継いで当主になった人物ですが、実は養子なのです。
しかも、謙信公が後継ぎを正式に定める前に急死してしまったがために、もう1人の養子である上杉景虎公との相続争いの末に当主となった人物なのです。
この時、景勝公は22歳。当時の方々は、20代前半から波乱万丈ですね。。。
ちなみに景勝公と相続争いをした景虎公は、なんと北条氏康公の七男。つまり、上杉家の人質だったんです。
いずれ、景虎公についてもご紹介できればと思います。

大河では“寡黙で凛としているようで、その実優柔不断でいい顔しい”といったように、とても人間臭さを全面に押し出した描かれ方をしていた景勝公。
(個人的にはとても“らしくていいな!”と好ましく思ったのですが、皆さまは見ていてどうだったのでしょう…?)
では、実際にはどういった人物だったのでしょうか。

こんな逸話があります。
秀吉公が伏見で開いた宴の際、紛れ込んでいた前田利益公(花の慶次等で有名な慶次さんですよ!)が猿踊りをしながら列席していた諸大名の膝に座り歩いたのですが、いざ景勝公の前に来たところ、利益公は景勝公の膝に乗ることを避けたとか。
何故かというと「景勝公の威厳ある雰囲気に気圧された」と後に語った、と言われています。
また、勝っていた猿があるとき自分の物まねをして見せた時に笑みを浮かべたのですが、これが生涯でただ一度、家臣が見た笑顔だったという話もあるほど。

では何故そこまで寡黙な人物だったのでしょうか。
ここからは私の憶測になりますが、偉大な先代である謙信公に、少しでも近づこうと努力をされていたのかもしれません。
また、義理の兄弟ながら家督を争い追いつめてしまった景虎公に対して、誠意を見せたかったのかもしれません。
そんな景勝公の努力もあり、上杉家は加増や減封を乗り越え、江戸の幕末まで米沢藩を存続させました。
 
己を律し、家の礎を築いた景勝公。
私は猪突猛進タイプなので、見習いたいと思っています。