白餅大名は食い逃げ犯!?戦国きっての転職男 前編
こんばんは、今回はあまり間を開けずに登場です(個人的には…)。
大雪のニュースを連日目にしますが、皆様のところは大丈夫でしょうか。
さて。
みなさん、武士というとどういう人物イメージを持っているでしょうか。
一般的には、この人と決めた主に一生ついていく…というイメージを持っている方も多いかと思いますが、それは果たして…?
今回は、類稀なる戦国の転職男についてご紹介してみようと思います。
藤堂高虎 公
近江にあった村の土豪でありながら没落し農民として生活していたところから城持ち大名までのし上がった本物の実力者です。
ではどのように出世していったのかと言えば、実は高虎公、その生涯で8人も主君を変えています。
○高虎公歴代の主君○
浅井長政公⇒阿閉貞征公⇒磯野員昌公⇒織田信澄公⇒羽柴秀長公⇒豊臣秀保公⇒豊臣秀吉公⇒徳川家康公
中には浅井氏のように、仕官中に仕えるべき主君を失ってしまったケースも含まれてはいますが、それでも75年の生涯にしては少なくない人数です。
では、高虎公はどんな経験をし何を思い仕官先を変えたのか、順を追って見ていきたいと思います。
1.武辺者と認められて頑張る
最初に仕えた浅井家に足軽として仕え始めると、後に発生した姉川の戦いでは目覚ましい武功を上げ、長政公から感状(現代で言う表彰状)を戴いています。
浅井家のために必死に働いて高虎公、しかし小谷城の戦いにて浅井家は滅ぼされてしまいます。
次に頼った浅井家家臣であった阿閉貞征公や磯野員昌公に仕えますが、やがて近江の国から離れます。
2.過小評価ばかりする上司に愛想を尽かす
近江を離れた高虎公、次に織田信澄公に仕えます。
ところが信澄公、数々の功績を高虎公が上げていたにも関わらず、高虎公が嫌いだという理由だけで加増や評価をしなかったと言われています。
そのため、高虎公は信澄公の元を去ります。
3.正しく評価してくれる上司に巡り合い、心血を注ぐ
次に仕えた羽柴秀長公は、高虎公にとって大変良い上司だったようです。
というのも、仕えてから中国毛利攻め、賤ヶ岳の戦いなど数々の戦に参陣し、特に賤ヶ岳では勝利の立役者となった高虎公に対し、秀長公は多額の加増をしたのです。
その額1300万石、現代にして約1兆3000億円(誤差あり)!秀長公からの評価のほどがお分かりいただけると思います。
その後も戦や城の建設のたびに加増を受け、また高虎公自身も主君とその国を第一に行動していました。
恐らく他がうらやむほどの信頼関係を築いていたのでしょう、秀長公が亡くなった後はその息子である豊臣秀保公に仕えました。
ここまでご紹介してきましたが、今回は少し長くなってしまったため、続きは次回と致しましょう(このブログ初の前後編です!)。
次回までに皆さまにひとつクイズを出したいと思います。
冒頭で載せている旗印、高虎公のものですが、これはいったい何を表していると思いますか?
答えは、次回のブログで合わせてご紹介しようと思います。