歴史に翻弄された悲運の武将
新年あけましておめでとうございます。(今さらですね)
先月は少しバタバタしてしまって1つしかブログが更新できなかったのが心残りですが、心機一転今年もマイペースに頑張ろうと思います。
改めまして、よろしくお願い致します。
いよいよ真田丸、始まりましたね。
これからどうなっていくのか、一年間楽しみです。
さて。
真田丸の主人公、真田信繁公は以前のブログ ( 三途の川の渡し賃 - 徒然青史 )で紹介した通り、西軍…つまり豊臣方として関ヶ原を戦っていました。
故に、今年の大河は西軍視点で関ヶ原を経て大阪の陣への話が描かれるのだと思います。
そこで今回は、今年の大河では悪役として描かれそうなこの方を、今のうちに紹介してみようと思います。
現代では裏切者として有名なのではないでしょうか。
関ヶ原の戦いにおいて、東軍に寝返り戦の勝敗を決定づけたと言っても過言ではない、その方です。
小早川という姓の通り、小早川隆景公を父に持ち、毛利家の家臣に連なる方です。
しかし、この親子関係にも色々あり…?
秀秋公の数奇な運命を辿りつつ、裏切りという大それた行為に至った原因に迫ってみようと思います。
そんな秀秋公、北政所様の生家にあたる杉原家(後に木下と姓を改めています)、北政所様のお兄様の子として生まれます。
つまり、北政所様の甥にあたる人物なのです。
そして3歳の頃、当時子供のいなかった秀吉公の元に養子として迎えられます。
以来北政所様に育てられ、元服を迎える頃には周囲からは当時関白の職にあった豊臣秀次公に次ぐ、2番目の豊臣家後継ぎとして見られていました。
順風満帆に見えた人生に異変が生じたのは、秀吉公の実子である秀頼公の誕生の折でした。
後継ぎ候補としての立場をなくした秀秋公の元に舞い込んだのは、毛利輝元公への養子縁組の話でした。
しかし、黒田孝高公から話を持ち掛けられたものの、他家の人物の介入による毛利の血の断絶を危惧した小早川隆景公は、秀秋公を毛利ではなく自分の養子として迎え入れます。
秀秋公、二度目の養子縁組です。
ところが、秀秋公の悲運はこれだけでは終わらず、秀吉公の養子であった頃に与えられていた丹波亀山城10万石の領地を没収されてしまいます。
この時隆景公が安芸三原で隠居したのに合わせ正式に小早川家を継ぎ筑前名島30万7,000石の領地も受け継ぎますが、朝鮮出兵の後に越前北ノ庄15万石への転封を命じられ、召し抱えていた多くの家臣に暇を出さざるを得なくなってしまいました。
この転封には、朝鮮出兵の際、三成公から秀吉公に伝えられた秀秋公の評価が低かったからである、という説もあります。
(ちなみに秀吉公の死後、五大老の決定により筑前名島への復帰が許されています。)
そして迎えた関ヶ原の合戦では、開戦後しばらく静観を決め込むも、昼頃に東軍へ寝返り大谷吉継公の陣へ攻め込んでいます。
結果的にこの裏切りが関ヶ原の勝敗を分けたのですが、この戦いのわずか2年後、21歳という若さでこの世を去ります。
秀秋公に攻め込まれ「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言葉を残し自刃した吉継公の祟りというのが通説ですが、アルコール中毒による内臓疾患を患っていたと言われています。
裏切者と罵られながら若くして亡くなった秀秋公。
彼もまた、戦国という時代に翻弄された時代の被害者だったのかもしれません。
天下人に恐れられた智の武将
こんばんは、二十四節気の大雪を過ぎていよいよ本格的に寒くなって来た頃、皆さま如何お過ごしでしょうか。
私はと言えば先日、ひょんなことから急きょ大分に行ってきました。
(実は飛行機が大の苦手なのですが、どうにかこうにかがんばりました。。。)
大分と言えばと思いを馳せつつ、今日はこの方に迫ってみようと思います。
(厳密にいえば私が訪問したのは別府で、この人物にゆかりがあるのは中津なんですけどね…)
黒田 孝高 公 (通称:黒田官兵衛)
以前大河ドラマにもなっているので知っている方も多いのではないでしょうか。
上で記載した以外にも如水という名前も知られているかもしれません。
秀吉公の軍師として有名ですが、実は最初から秀吉公に仕えていたわけではありません。
最初は播磨の小寺家に仕える外様大名でした。
転機が訪れたのは天正3年頃、当時播磨は進出してきた織田に付くか、安芸を治める毛利に付くか意見が二分していました。
この時、織田方を推していたうちの一人が孝高公でした。
さすがは軍師、先見の明があったのかもしれませんね。
その後は小寺家と離別(どうやら孝高公のほうが小寺家に裏切られてしまったよう…)、織田家臣となり、秀吉公に仕えるようになったようです。
実は、秀吉公が天下を取れたのは孝高公のおかげ…という見方もあるのです。
(もちろんこれにも諸説あります)
天正10年、歴史の教科書にも必ず登場する本能寺の変、毛利の支城高松城を攻めていた秀吉公に信長公横死の知らせが届きます。
その際、突然主を失い取り乱した秀吉公に対し、孝高公はこう言ったそうです。
「御運が開かれる機会が参りましたな」
秀吉公はこの言葉を聞き、冷静さを取り戻すと同時に孝高公の智略を恐れるようになった、と言われています。
その後、孝高公の助言を受け秀吉公は毛利家と和睦、急いで京へ取って返し山崎にて謀反人、明智光秀公を討ちました。
これが有名な中国大返しですね。
この後秀吉公は天下人として進んでいくことになりますが、その後も先の本能寺での一件により孝高公を恐れていたといいます。
ある時、秀吉公は家臣たちに「自分の次に天下を治めるのは誰だと思うか」と問い、徳川家康公や前田利家公の名前が挙がる中、「官兵衛がその気になればあっという間に天下を取るだろう」と言ったそうです。
それを聞いた孝高公はすぐさま剃髪し、自分に天下を狙う心づもりは無いことを示しています。
如水と名乗り始めたのもこの頃のようです。
ところで。
秀吉公が実際に孝高公を恐れていたかは現存する記録を元に推測することしかできません。
しかし、少なくとも孝高公自身は、家督を早々に息子に譲りながらも、秀吉公が亡くなるまで秀吉公に仕えています。
個人的には、そこに以前の記事でご紹介した、竹中重治公との絆があるのではないかと思っています。
実は孝高公、小寺家と離別する少し前、荒木村重公によって有岡城に1年ほど幽閉されています。
この時、孝高公が有岡城から戻らないのは荒木方に寝返ったからだと考えた信長公は、人質として預けられていた孝高公の息子松寿丸を処刑するように秀吉公に命じます。
しかし孝高公が裏切ると思えなかった秀吉公、この一件を重治公に相談します。
すると重治公、「この件は自分にお任せを」と言って松寿丸を預かり、処刑したと偽って自分の家臣の家に匿います。
孝高公が有岡城から助け出された後、重治公の機転と策によって息子が生きながらえたことを知るのですが、その時すでに重治公は病により陣没しているのです。
直接お礼を言えなかった孝高公、しかし、その重治公が命を賭して仕えた秀吉公の天下を支えることで重治公へのお礼をも兼ねていたのかな、と。
ちなみに孝高公と重治公の絆は、その息子たちにも受け継がれていたそうです。
2人の偉大な軍師が支え続けた秀吉公。
運も多大にあったのかもしれませんが、天下を取れたのにも頷けます。
諫言を恐れぬその度量
すっかり秋めいてきましたね。
私は先日地元の神社に行って、御神木の紅葉を見てきました。(御神木、大きな大きな銀杏なんです)
皆様はもう紅葉はごらんになったでしょうか。
さて、紅葉とはあまり関係が無い内容になってしまいましたが、今回はこの方をご紹介してみようと思います。
竹中 重治 公 (通称:竹中 半兵衛)
(重治公、後に孝高公に軍配を送ったりもしているそうですよ)
黒田孝高公(黒田官兵衛)と並び、豊臣の両兵衛と言われることも多い重治公。
ところが「信長公記」など当時の資料にその記述が少なく、その本人像は実はいまだ謎に包まれている部分が。
不明な部分が多いとはいえ、現在持たれているイメージの通り軍略の才があったのは確かなようで、わずか13才の時に起きた長良川の戦いの際には、父が不在の隙を狙って城へ攻め入ってきた斎藤義龍公の軍勢を母,弟と共に撃退しています。
智略に長けた逸話が多い重治公ですが、その中から1つご紹介してみようと思います。
重治公が仕えていた美濃の斎藤龍興公は政務に関心を持たず、重治公を含む先代からの家臣を軽んじ、酒や女に溺れる日々だったのです。
斎藤家の行く末を案じた重治公、弟と共謀してひとつ策を講じます。
とある日、弟が寝込んだと一報を受けた重治公は、医療器具や薬の類を入れた長持ちを用意し、供の者14名と稲葉山城へ見舞に訪れます。
ところが、実は弟が寝込んだというのは大嘘。
弟は重治公より「仮病を使え」と指示されていたのです。
この時、城内では重治公は見舞いに来たと皆が油断していたためまともな対応が出来ず。
重治公に弟,供の者14人という総勢たった16人に、あっという間に城は占拠されてしまいました。
稲葉山城を手に入れ無能な主君も追い出しシメシメ…と終わるかと思いきや。
占拠から半年後には、自分の非を認め謝罪をしてきた主君龍興公に対しすんなりと稲葉山城を返還しているんです。
しかも、返還までの間、織田信長公より「美濃半国をくれてやるから稲葉山城を明け渡せ」と交渉されたにも関わらず、重治公は「別に領地が欲しいわけではない」とこれを断っているのです。
では何故、重治公は龍興公から稲葉山城を占拠したのでしょうか。
実は、すべて龍興公と斎藤家の行く末を案じた重治公の諫言だったのです。
だからこそ信長公からの交渉を断り、龍興公の謝罪を受け入れたのですね。
ちなみに重治公、この後すぐに隠棲してしまいます。
目上の人への諫言、なかなか簡単に言えるものではないですよね。
それを、自分の地位を顧みずに行える勇気、頭の良さ、尊敬します。
重治公には他にも逸話が多々あるので、またお話しできたらと思います。
佐和山の友のため奮戦した名将
11月に入ってすっかり日が短くなったなぁと感じているあーすです。
皆さま如何お過ごしでしょうか?
私はというと、先日、とあるイベントに合わせて念願の佐和山にお邪魔してきました。
佐和山城址と佐和山一夜城
415年前、ここに佐和山城が建っていたんだなぁと考えたら、妙に感慨深かったです。
そんな今日は、元佐和山城主三成公の友人について触れてみたいと思います。
大谷吉継公
私は有名な武将だと思っているのですが、どうなのでしょう?
石田三成公の親友であり、豊臣秀吉公においては「100万の軍勢を指揮させてみたい」と言わしめた人物です。
1570年頃に秀吉公の小姓となった吉継公、その名が歴史に現れたのは秀吉公が拠点を姫路に移した頃のようです。
当時、秀吉公の馬廻衆だったんですね。
同僚…と呼ぶのが正しいのか微妙ですが、この頃の馬廻衆には福島正則公、加藤清正公、仙石秀久公といった、後の大大名もいました。
そして賤ヶ岳の戦いにて、七本槍には選ばれなかったものの、先懸衆として三成公と共に大手柄を挙げたそうです。
ところで吉継公、このブログで度々話題にも挙げている関ヶ原の戦いでは、西軍として参陣しているのですが。
実は、吉継公は家康公とも親しい間柄でした。
関ヶ原の戦いが起きる少し前、家康公に謀反の疑いを懸けられた会津の上杉討伐に、吉継公も向かっていたのです。
途中立ち寄った佐和山城で、三成公から家康公への挙兵の話を持ち掛けられました。
その際、「無謀すぎる、勝機はない」「お前は横柄だから本来味方であるべき人物も内府(家康公のこと)に組するだろう」「知慮才覚は天下に並ぶ者もいないが、勇気もないし決断力にも欠けている、大将の器ではない」と、本人を前にして随分と辛辣な忠告をしたとか。
それでも最終的には三成公の熱意に押され、西軍に組することに決めたのだそうです。
では何故、戦う前から結果が見えていたにも関わらず、吉継公は三成公についたのか。
それは、秀吉公存命の際に開かれたお茶会まで遡ります。
大阪城で開かれたお茶会の際、客人は茶碗に入ったお茶を回し飲みをしていました。
ちなみに余談ですが、濃茶の回し飲みは「吸い茶」といい、千利休が始めたとされています。
話を戻してお茶会、この時皮膚病を患っていた吉継公がお茶を飲む際、顔から膿が茶碗に落ちてしまったため、参列していた諸将は以降そのお茶を飲むのを躊躇い飲むふりだけをしていました。
そんな中、三成公は平然と茶を飲み干し、「美味しくて全て飲んでしまった。もう一杯茶を戴きたい」と言ったとか。
その後も他の皆が吉継公を敬遠する中、三成公だけが気軽に話しかけて行ったそうです。
そんな出来事があったからこそ、友情よりも損得が優先されていた戦国の世にあっても、吉継公は友情を優先させたのでしょうか。
その真意は今となっては曖昧ですが、関ヶ原当日西軍内は西軍は日和見や裏切りが相次ぐ中、病で目も不自由であった吉継公とその軍勢は、それでも最後まで奮戦していたといいます。
あけすけに物を言いつつも支え合える間柄、なんだか素敵ですね。
私は余計なことばかり言ってしまいがちなので、二人のエピソードを振り返り一呼吸おいてみたいと思います。
鬼とネコ
だいぶ日にちが経ってしまいました、すみません。
この時期はどうしてもイベントを多くやっている関ヶ原や彦根に思いを馳せてしまいがちです。
まだ一度も行ったことはないのでいつか行ってみたいです。
さて。
そんな本日は、戦場の鬼とネコにまつわる逸話などお話ししてみようと思います。
島津義弘公
たぶん知っている方のほうが多いんじゃないかと思うんです。
猛将として武勇に誉れ高く、「鬼島津」と呼ばれたその人です。
猛将というと荒くれ者?と思う方もいるかもしれませんが、義弘公、お茶や医学にも秀でており、武,学,芸とまさに天に二物以上を与えられた人物だったそうです。
また、主従分け隔てなく接し、その家族へまで気配りができる、非常に出来た人物であったとも。
そのため、義弘公の死後、当時は殉死が禁止されていたにも関わらず、10人以上の殉死者があったとか。
さてそんな義弘公。
タイトルの”ネコ”とは何ぞやと申しますと、豊臣秀吉公の天下泰平後の朝鮮出兵、つまり文禄・慶長の役ですね。
それの出兵の際に、7人の侍ならぬ7匹のネコを連れて行っているのです。
とはいえ、ただ可愛がるために連れて行ったわけではありません。
ネコの瞳を覗き込んで、最も細くなっていたら正午といったように、瞳の大きさで時間を見ていたのです。
ですが、遠い異国の地で戦い続きの中、彼らに癒された兵士も確かにいたのではないでしょうか。
7匹連れて行ったネコのうち、生還できたのは2匹でした。
その2匹が祀られているのが、鹿児島にある猫神神社だそうです。
さて、何故ネコの話を持ち出したかと言いますと。
弊社ホームページに専務のページができました。
専務ダイゴロウ
弊社専務はネコで、名前をダイゴロウと言います。
彼は何故ソノリテにやって来たのか、何故専務になったのか。
紙芝居仕立てでご紹介させていただいております。
義弘公の傍で共に戦い、そして時折周囲を癒していた7匹のネコ。
彼らと同じように、日々戦う社員を傍らで癒しているネコ専務のページ、ぜひぜひ覗いてみてください。
志の行方
10月に入りました。
本日1日、旧暦ではありますが、厳島の戦いが起こった日。
そして、石田三成公、安国寺恵瓊殿、小西行長公の3名が京都の六条河原で処刑された日です。
厳島の戦いから処刑の日まで、およそ45年。
当時の人の寿命に近しい年の間、争いが続いていたんですね。
ちなみに、石田三成公が生まれた時分にはすでに時は戦乱の世を迎えていました。
平和な時代をほとんど知らずにその命を散らしていったのかと、思いを馳せたりしておりました。
さて。
先日は少し熱がこもりすぎて長いブログになってしまったので、今日は三成公の最後の日の逸話から少し紹介したいと思います。
三成公といえばお茶のイメージ・・・お抹茶の写真とともに。
その日、三成公は六条河原まで、市中引き回しされていました。
その際に喉の渇きを覚えた三成公、近くにいた警護の兵に白湯を求めますが、持ち合わせの水が無く「柿ならある」と言われます。
三成公は「柿は痰の毒である」と答えるのです。
痰の毒というのは、肝の毒という意味で、当時柿は東洋医学で腹を冷やすものだと認識されており、三成公は一切口にしなかったと言われています。
しかし、三成公はまもなく処刑されるはずの人間。
当然警護の兵も「もうすぐ斬首される人間が何を言うか」と笑ったといいます。
これに対し三成公が返した言葉が「大志を持つ者は、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」という言葉でした。
抗えぬ運命に翻弄されながらも、最期まで諦めずにいた三成公の意思の強さが滲む言葉だと思います。
敗戦の将として散っていった三成公。
しかし、家康公と実はお互い認め合っていた、という説もあったりします。
また、家康公の次男である結城秀康公は、敗戦の敵将三成公から譲り受けた石田正宗という刀を、後生大事に持ち続けてたという逸話もあったりします。
その後続いた江戸幕府、実は三成公の志は、もしかしたらひっそりと受け継がれていたのかもしれません。
9/15と彼岸花
本日、9月15日。
西軍贔屓な戦国史好きの自分にとっては感慨深い日です。
旧暦ではありますが、415年前の本日この日、日ノ本を二分する大きな戦いが起こりました。
そう、関ヶ原の戦いです。
深い霧の中、午前8時に始まった戦いは夕刻を迎える頃、西軍の敗戦で決着がつきました。
逃げ延びた石田三成公も後に捕縛され、後日京都で処刑されます。
その少し前、命を懸けて三成公を守らんとした一人の猛将が存在したことをご存じでしょうか。
今日は関ヶ原の合戦に思いを馳せつつ、その人物についてご紹介したいと思います。
島 清興公(通称:島 左近)
記憶違いでなければ、歴史の教科書にも中々登場しない方だと思います。
清興公は、大和国出身で畠山家臣,筒井家臣を経て石田三成公に仕えた武将です。
とはいっても出身が判明したのも割と最近、更には畠山氏から筒井氏へ士官先が変わった時期も、その後三成公に仕え始めた時期も実は曖昧なんです。
わかっていることは筒井家で重臣であったにも関わらずその地位を捨てて牢人となり、その後三成公に士官して関ヶ原を迎えていることです。
当初仕えていた畠山氏没後筒井家へ仕えていた清興公ですが、主が病に倒れた後に後継ぎとなった人物と折が合わず、重臣であったにも関わらず主家を去ります。
その後は大和の寺院に身を寄せながら点々と牢人生活を送っていました。
そんな折、清興公に士官の要請をしたのが三成公です。
それまでにも多くの士官要請を断っていた清興公、当然三成公からの要請も当初断りますが、三成公からの再三の説得により最終的には応じます。
当時4万石だった三成公の禄高のうち半分である2万石と三顧の礼で迎えられ、「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と吹聴されるようになった三成公側近、島左近の誕生です。
(清興公を召し抱えた時期や当時の三成公の禄高には諸説ありますが、いずれにしても破格の待遇でした)
そんな清興公、三成公への忠義を思わせるちょっとした逸話があったりします。
関ヶ原の戦いが起こる前、他国の武将へ家康公からの調略が横行する中、旧知である柳生宗矩公が清興公の元を訪ねます。
趨勢は明らかに家康公に傾いている今、清興公も徳川方につくべきだと進言するために。
それに対し、確かに世は徳川方に有利に動いている、戦が起これば負けるだろう、しかし己の主は三成公だと意思を変えなかったと伝わっています。
そうして迎えた関ヶ原の合戦では、合戦冒頭で黒田長政公率いる鉄砲隊から襲撃を受け一時前線から下がったものの、小早川秀秋公らの寝返りにより西軍が総崩れとなった際は再び出陣し、正面に居座る軍勢に突撃していったそうです。
その時突撃を受けた軍に居た人々は、合戦後も鬼気迫る清興公を夢に見てはうなされていたとか。
実際に寝返りを進言された際に清興公が何を思っていたのかは、今となってはわかりません。
でも、最期まで己が主の敵へ向かっていった姿に答えがあるのではないでしょうか。
ちなみに、現在の関ヶ原合戦場跡の地域では、ちょうどこの時期に咲く彼岸花に別名があったりします。
数年前東北で撮影した彼岸花 (ぶれているのはご愛嬌でお願いします)
その名も左近花。
関ヶ原の合戦で島の左近が流した血の赤だ、と言われているそうです。
今でも花にその名を遺す勇将、咲き誇る彼岸花と共に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。