徒然青史

ツレヅレセイシ...戦国史好きでオタクなIT屋さんの日常絵巻

三河の武将を天下人に押し上げた暗躍者

長らくご無沙汰しておりました、こんばんは。
前回の更新からちょうど半年、色々ありまして更新をストップしておりましたが、またゆるりと再開してみようと思います。
更新をストップしている間に真田丸ではすっかり関ヶ原が終わってしまいましたが、私、先日初めて関ヶ原の合戦祭りを見に行ってきました。

f:id:earth-sonorite:20161026232146j:plain のろし演舞には少し風が強かったです。


関ヶ原自体は二度目だったのですが、お祭りの時はすごい人手ですね!
とくに今年は、真田丸石田三成公を演じた山本耕史さんがいらしていたので余計でしょうか。

さて。
久々のブログで誰を取り上げようかと考えてみたのですが、少し変わった経歴を持つこの方にしてみようと思います。

本多正信 公

同じ本多姓ながら、忠勝公は猛将のイメージがありますが、対する正信公はといえば謀略のイメージでしょうか。
ちなみに、忠勝公は正信公のことを大嫌いだったようで、「佐渡の腰抜け」などと呼ばれ、同じ苗字だが全くの無関係だということを公言していたようです。
佐渡とは正信公のことで、正信公が佐渡守だったので佐渡と呼ばれていました。
まぁ、忠勝公だけでなく、徳川の古くからの家臣には往々にして嫌われていたようで。
というのも、正信公、実は徳川家康公の鷹匠だった時に一向一揆に乗じて三河を出奔しているんです。

1563年に起こった三河一向一揆で、一揆側の武将として戦っていたのですが、家康公が一揆を鎮圧すると、三河を逃れ大和の松永久秀公に仕えたそうです。
その後、松永公の元を去った正信公、各地を転々としたそうです。
一説では本願寺側について、織田信長公と戦っていたという話もありますが、確実な資料は出てきていないようです。
そうして各地で知略を蓄えた正信公、やがて家康公の元へ帰参します。

家康公が小牧・長久手の戦い以降豊臣秀吉公の下に収まってからしばらくは家康公の元で静かに政治手腕を振るっていた正信公。
その彼が表舞台に躍り出たのは、秀吉公が亡くなってからでした。
次の天下人を主君である家康公とするべく、数々の謀略を仕掛けていきます。
前田利家公の死後その息子利長公へ謀反嫌疑をかけ、母である芳春院を江戸へ人質として下らせ、加賀100万石の大大名の牙を抜いてしまいます。
その後も、徳川家と各大名間の婚姻を促進し身内を増やすことにより、家康公を事実上の天下人に推し進めていきました。
その傍若無人ぶりを見逃せず関ヶ原の戦いに挑んだ石田三成公も、ある側面から見たら正信公の掌の上だったのでしょう。
事実、内部分裂により敗退した西軍の中で東軍に寝返った将たちは、正信公の指示により調略を受けていた者が多かったようです。
関ヶ原の戦い後には朝廷に働きかけ、結果家康公は征夷大将軍に就任することとなります。

家康公を天下人にすべく奔走した正信公を家康公も友と呼び、参謀として重用したといいます。
しかし、それほどの評価を得ていながら、正信公の領地は2万2千石だけ、またその息子にも「3万石以上は決して受けるな」と説き続けていました。
過ぎたる加増は人々の疑いを招くと他の将にも忠告していた正信公でしたから、徳川家の重臣ではありますが過去に家康公に刃を向けている自分や息子に対しても不要に他人の反感を買うことの無いように戒めていたのでしょう。

関ヶ原の戦いから16年後、家康公の死去と共に家督を息子に譲り、正信公は隠居します。
そしてその2ヵ月後、家康公の後を追うようにその生涯を閉じました。

秀吉公が亡くなってから天下を治め、江戸幕府の礎を作った家康公。
その影に、策を以て家康公を導く知略家がおりました。

己を律する寡黙な武将

こんばんは。
バタバタとしている間に今年も4分の1が終わってしまいました。
大河もとうとう大阪編ということで、今後に期待です♪

さて。
次は誰を紹介しようか、それとも人ではなく他のものにフォーカスしようか、など本当は色々考えていたのですが。
大河を見ていてテンションが上がってしまったため(とても不純な動機!)、この方を紹介してみようと思います。


上杉景勝
 

f:id:earth-sonorite:20160407195735j:plain この方は関ヶ原でなく会津で戦ったのですね。。。


上杉謙信公の後を継いで当主になった人物ですが、実は養子なのです。
しかも、謙信公が後継ぎを正式に定める前に急死してしまったがために、もう1人の養子である上杉景虎公との相続争いの末に当主となった人物なのです。
この時、景勝公は22歳。当時の方々は、20代前半から波乱万丈ですね。。。
ちなみに景勝公と相続争いをした景虎公は、なんと北条氏康公の七男。つまり、上杉家の人質だったんです。
いずれ、景虎公についてもご紹介できればと思います。

大河では“寡黙で凛としているようで、その実優柔不断でいい顔しい”といったように、とても人間臭さを全面に押し出した描かれ方をしていた景勝公。
(個人的にはとても“らしくていいな!”と好ましく思ったのですが、皆さまは見ていてどうだったのでしょう…?)
では、実際にはどういった人物だったのでしょうか。

こんな逸話があります。
秀吉公が伏見で開いた宴の際、紛れ込んでいた前田利益公(花の慶次等で有名な慶次さんですよ!)が猿踊りをしながら列席していた諸大名の膝に座り歩いたのですが、いざ景勝公の前に来たところ、利益公は景勝公の膝に乗ることを避けたとか。
何故かというと「景勝公の威厳ある雰囲気に気圧された」と後に語った、と言われています。
また、勝っていた猿があるとき自分の物まねをして見せた時に笑みを浮かべたのですが、これが生涯でただ一度、家臣が見た笑顔だったという話もあるほど。

では何故そこまで寡黙な人物だったのでしょうか。
ここからは私の憶測になりますが、偉大な先代である謙信公に、少しでも近づこうと努力をされていたのかもしれません。
また、義理の兄弟ながら家督を争い追いつめてしまった景虎公に対して、誠意を見せたかったのかもしれません。
そんな景勝公の努力もあり、上杉家は加増や減封を乗り越え、江戸の幕末まで米沢藩を存続させました。
 
己を律し、家の礎を築いた景勝公。
私は猪突猛進タイプなので、見習いたいと思っています。

短くも強く生きた、大阪方最後の幹

こんばんは。
各地で桜の開花宣言が相次いでいますね。
桜が大好きなので、今年はどこに撮影に行こうか思案中です。

さて。
今回は、前回のちょっと寄り道記事でも話題に上がったこの方をご紹介しようと思います。


豊臣秀頼

f:id:earth-sonorite:20160326204905j:plain 現在の関ヶ原・・・



幼名を拾丸と名付けられ東西の対立に散っていった、豊臣家最後の武将です。

 

秀頼公誕生の頃、実は秀吉公は既に関白の座を従兄の秀次公へ譲り、隠居先として伏見城を築城している最中でした。

そんな中、後継ぎとなりうる男児が生まれたため、秀吉公は何としても秀頼公を後継者とするべく模索します。

なんと秀頼公、生後2か月にして秀次の娘と婚約をさせられたのです。

しかし、その後謀反の疑いをかけられた秀次公とその一族が滅ぼされたことにより、この婚約は無効となりました。

※個人的には、この事件が諸大名の豊臣離れを加速させたのではないかと思っています。

 

その後、以前のブログ↓

絆を裂かれてもしなやかに生きた女性 - 徒然青史

でも紹介した千姫と婚姻を結ぶことになるのです。

そうして迎えた1598年8月、天下人であった秀吉公が亡くなります。

この時まだたったの5歳であった秀頼公、綻びゆく豊臣家を再びまとめるには、まだあまりにも幼かったのです。

 

1600年に起こった関ヶ原の戦い、徳川vs豊臣と思っている方も多いかもしれませんが、実はこの時、東軍も西軍も戦の大義を“秀頼公の御為”としていたのです。

ですので戦の後、秀頼公は家康公を忠義者として労っています。

そう、実は豊臣家と徳川家の仲は、決して悪くはなかったのです。

とはいえ、関ヶ原後に家康公は、豊臣家の領地を独断で各大名に分配して豊臣家の石高を減らしてしまったので、天下を狙っていたのは間違いないのかもしれません。

 

その後しばらく続いた西の豊臣、東の徳川が崩れ始めたのは、1611年頃のことでした。

二条城にて、ずっと行われていなかった秀頼公と家康公の会見が、とうとう実現したのです。

この頃秀頼公は18歳、190センチを超える大男に成長していたとか。

一説では、この会見の際に秀頼公の武将としての威厳を目の当たりにした家康公が、それ以降豊臣家討伐へと舵を切ったとも言われています。

 

1614年の大阪冬の陣、そして翌年の大阪夏の陣にて、秀頼公は21歳という短い生涯を閉じました。

大阪冬の陣の折、家康公からの和睦の申し入れを秀頼公は当初、反対していたと言います。

善戦していた冬の陣、もしかしたら秀頼公は、この好機を逃せば豊臣存続の道はないと、考えていたのかもしれません。

 

1980年に行われた大阪城三の丸跡の発掘調査で、人の手によって埋葬されたらしき3人と馬1頭の頭蓋骨が見つかっています。

内1人は、20歳前後、顎に介錯の際についたと思われる傷があったそうです。

 

幼少の頃から大きな決断を迫られ続けた秀頼公。

一体何を思い生き抜いたのか、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

子供の健やかな成長を願ってつけられた呼び名

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<去年あきる野で撮影したハクモクレン。そろそろ今年も咲く季節です。>

 
皆さまこんばんは。
冬の寒さが影を潜め、春の陽気に心が躍る頃になりましたね。
ちなみに私はというと、小学生の頃から悩まされている花粉と戦っております。

さて。
最近はずっと一人の人物にスポットを当ててご紹介してきましたが、ここでちょっと小休止。
こんな話題を取り上げてみようと思います。

幼名って、何?

平安から江戸の頃、武士や貴族に生まれた男性は、幼少期と成人後で名前が違ったことをご存じの方も多いかと思います。
成人してからの名前を諱、幼少期の名前を幼名。
この幼名、有名なところでいうと、徳川家康公の「竹千代」、織田信長公の「吉法師」、前田利家公の「犬千代」などでしょうか。

何故、幼少期と成人後で名前が違ったのでしょうか。
それには、当時と現代とで、子供が無事に成人を迎える確率があまりにも違ったためです。
例えば、戦に巻き込まれる。あるいは、病気で命を落とす。またあるいは、飢饉などで餓えてしまう。
生まれた男の子は大事な後継ぎ候補、何とか成人まで無事に育ってもらわなくては困ります。
そこで、元気に無事に、すくすくと成長するよう願いを込められた幼名がつけられたわけですね。
そんな幼名、実はちょっとした法則があったりなかったりするのです。

1.〇〇千代
今でも残る「千代」という言葉には“長い年月”という意味がありますね。
つまり、生まれた子が健康に長生き出来るよう、末永い幸福を願ってつけられた名前です。
例を挙げると、先にも記載した、「竹千代」や「犬千代」、他に上杉謙信公の「虎千代」などでしょうか。
ちなみに、徳川家の「竹千代」や前田家の「犬千代」は、代々嫡子に受け継がれたそうです。

2.〇〇丸
丸というと音感が可愛いという印象を持つのですが(私だけでしょうか…)。
実はこれ、“おまる”、つまりトイレを表しているのです。
何故大切な子にトイレなんてつけたのかというと、当時は病気や災いは鬼がもたらすと信じられていました。
その鬼は悪臭や不浄なものを嫌うとされていたため、魔除けの意味を込めて名付けられていました。
例を挙げると、伊達政宗公の「梵天丸」や、毛利元就公の「松寿丸」などでしょうか。

3.独自をゆく
もちろん、皆が皆「千代」や「丸」をつけていたわけではありません。
先に挙げた「吉法師」や、石田三成公の「佐吉」、直江兼次公の「与六」など。
いずれにしても、子を思って親が名づけるのは、今も昔も変わりませんね。

ところで。
先日のブログで紹介した千姫の旦那様に当たる、豊臣秀頼公。
幼名はなんと、「拾丸(ひろいまる)」。
まるで拾ってきたような名前!と思うかもしれませんが、実はそうなのです。
秀吉公は最初の嫡男を病で亡くしており、「拾ってきた子は強く育つ」という言い伝えから、秀頼公に「拾」の文字を付けたそうです。
しかも、つけただけではなく、実際に一度、まだ赤子であった秀頼公を外に放置し、再度抱き上げてまで強く生きることを願ったとか。
それが功を奏したのかはわかりませんが、拾丸はすくすくと成長し、一説には190センチにもなる大男になったと言われています。

名前って、やっぱり大事なんですね。
自分の名前について、一体どんな理由で付けられたのか、考えてみるのも面白いかもしれません。

絆を裂かれてもしなやかに生きた女性

こんばんは。
だんだんと日が延びてきたことは実感しますが、暖かくなったり寒くなったり気温はまだまだ落ち着きませんね。
最近は、高熱の出ない種類のインフルエンザなんかも流行っているそうなので、体調には気を付けたいです。
 
さて。
先日、次は誰を紹介しようかと考えていたところ、歴女仲間に「奥方とかスポットに当てないの?」と質問されたので、それならばとこの方を紹介してみようと思います。
 
千姫
 

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<鎌倉:東慶寺で見られるさざれ石>
 
徳川秀忠公の娘、つまり、徳川家康公の孫に当たる人物です。
それだけ聞くと「なんだ、お嬢様か」って思う方もいるかもしれません。
けれど、実はこの方も、歴史の流れに翻弄され数奇な運命を辿ったお方なのです。
 
生まれは1597年の伏見城内徳川屋敷、お母さまは浅井三姉妹の一人、江姫でした。
この頃既に年老いていた秀吉公は、4歳になる秀頼公の将来をとても心配していました。
そこで白羽の矢が立ったのが、この千姫。
秀頼公の正室として姫を迎えることで、徳川家の全面支援を受けようと考えたのですね。
婚姻の儀が行われたのは千姫が2歳の折、直後に秀吉公は亡くなります。
それから5年後、7歳となった千姫は秀頼公の元へ嫁ぎました。
 
誰の目に見ても明らかな政略結婚でしたが、意外に秀頼公と千姫の仲は睦まじかったようです。
輿入れから9年後、16歳を迎えた千姫の鬢削の儀を、秀頼公自ら行っていたと次女の目撃談として記録に残っています。
鬢削の儀とは、今で言うと成人式のようなもので、女性は成人すると前髪を切り揃えていました。
二人の仲を引き裂いたのは、1614年と1615年に起きた大阪冬の陣、そして大坂夏の陣
家康公の命により千姫は助け出され、燃え盛る大阪城の中、秀頼公は自刃します。
 
その後千姫は、満徳寺への入山を経て、1616年本多忠勝公の孫に当たる忠刻公に嫁ぎます。
忠刻公との仲も睦まじかったそうですが、流産を繰り返し、1618年に勝姫、1619年に幸千代を授かるも、1621年に3歳という幼さで幸千代を失ってしまいます。
大阪の陣で死んでいった秀頼公の祟りだという噂が立ったため、伊勢神宮へ供養を依頼し、同時に男山へ天満宮を建立しました。
ところがその努力空しく、1626年に夫、義母、実母を立て続けに亡くしてしまうのです。
夫である忠刻公は、なんと31歳の若さでした。
 
これを機に勝姫と二人江戸に戻った千姫は、2年後に勝姫を嫁がせた後、竹橋で一人暮らしていました。
たびたび、勝姫が嫁いだ池田光政公の元へ娘や孫の顔を見に行っていたそうですが、千姫本人は一人のまま、1666年に70歳でその生涯を閉じています。
 
では、自分を祟ったと言われた秀頼公を、千姫は恨んではいなかったのでしょうか。
それを紐解くこんな逸話も残っています。

大阪城落城の際、捉えられた中には秀頼公と側室の間に生まれた幼い娘・後の天秀尼がいました。
本来であれば処刑されるはずだった天秀尼を、千姫は養子に迎え助命を嘆願します。
後にその娘は東慶寺の尼になっています。
江戸時代は女性の駆け込み寺(縁切り寺)として有名だった東慶寺、そこで起こった事件の際にも、天秀尼からの依頼で幕府方に口添えしています。
もし秀頼公を恨んでいたのなら、その娘を、養子といえど助けたりなどしたでしょうか。
 
幾度もつらい思いを経験しながらも、その穏やかさを失わなかった千姫のしなやかな強さ、見習いたいですね。
ちなみに鎌倉に残る東慶寺には、国家に登場するさざれ石も見れます。
一度足を運んでみては如何でしょうか。

白餅大名は食い逃げ犯!?戦国きっての転職男  後編

皆さまこんばんは、前回よりさらに間を詰めての登場です。
果たしてこのペースは保てるのか…!?
 
さて。
初の前後編に分けさせていただいたこのブログ。
引き続きこの人物についてご紹介させていただきます。
 

藤堂高虎

■前回のおさらい
1~3のエピソードについてはこちら↓↓

白餅大名は食い逃げ犯!?戦国きっての転職男 前編 - 徒然青史


○高虎公歴代の主君○
浅井長政公⇒阿閉貞征公⇒磯野員昌公⇒織田信澄公⇒羽柴秀長公⇒豊臣秀保公⇒豊臣秀吉公⇒徳川家康

さて、前回までに豊臣秀保公に仕えた高虎公、今度はどういった経緯で主君が変わるのでしょうか。
順を追って見ていきたいと思います。

4.時代の先を読み己の行く末を見極める
秀長公の後に仕えた秀保公ですが、わずか17歳で病死したと言われています。
その後高虎公は次に仕官することなく出家しますが、それを惜しんだ豊臣秀吉公の説得により還俗し仕官しています。
秀吉公の元でも元来の才能を発揮し多数の武功を上げ、ここでも加増を受けています。
ところが。
秀長公の時とは異なり、秀吉公が亡くなる少し前から、高虎公は徳川家康公に急接近します。
元より高虎公と家康公の間には親交があったと言われていますが、それにしても不思議なタイミングでした。
もしかしたらこの時既に、次の天下は豊臣ではなく徳川の物だと考え、自分の行く末を見定めていたのかもしれません。
そして起こった関ヶ原の戦いではもちろん東軍に付き、各武将への調略活動や武勲を上げました。
戦後は外様大名として徳川家の重臣に迎えられたそうです。
 
と、ここまで時を追って高虎公の仕官の歴史をご紹介しましたが、皆さまはどう感じたでしょうか。
理由はどうあれ、死別以外で主人をコロコロ変えるなんて信用できない、と思った方も少なくないと思います。
しかし実際には、江戸時代に儒教が広まる以前の日本では、正しく評価してくれる将来性のある主を選ぶことは武士にとっての当たり前の権利でした。
そう考えると高虎公は、他の誰よりも人を見る目に長けていて、それ故に現代にまで名を残すほどに出世が出来たのかもしれません。
これ、現代にも当てはまりますよね。
ブラック企業がよく話題に上がる現代ですが、自分の将来と仰ぐ人は良く見て考えたいですね。
 

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最後に、前回のクイズの答え合わせを。
高虎公の旗印は黒字に白丸が3つ。
この白丸、実は白餅を表していると言われています。
近江を離れ牢人生活を行っていた高虎公が空腹に耐えかね、三河の餅屋にてお金が無いにも関わらず飲食をしてしまいます。
しかしそのことを主人に白状したところ、無銭飲食を許すどころか故郷までの路銀まで戴いたそうです。
それによほど感謝を覚えたのでしょう、高虎公の旗印には丸餅が描かれました。
ちなみに、長い時の後に出世して城持ち大名になった高虎公は、その餅屋にお金を返しに行ったそうですよ。

高虎公は、以前に紹介した武将との因縁のエピソードもあったりするので、また折を見て紹介したいと思います。

白餅大名は食い逃げ犯!?戦国きっての転職男  前編

 

こんばんは、今回はあまり間を開けずに登場です(個人的には…)。

大雪のニュースを連日目にしますが、皆様のところは大丈夫でしょうか。

 

さて。

みなさん、武士というとどういう人物イメージを持っているでしょうか。

一般的には、この人と決めた主に一生ついていく…というイメージを持っている方も多いかと思いますが、それは果たして…?

今回は、類稀なる戦国の転職男についてご紹介してみようと思います。

 

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藤堂高虎

 

近江にあった村の土豪でありながら没落し農民として生活していたところから城持ち大名までのし上がった本物の実力者です。

ではどのように出世していったのかと言えば、実は高虎公、その生涯で8人も主君を変えています。


○高虎公歴代の主君○

浅井長政公⇒阿閉貞征公⇒磯野員昌公⇒織田信澄公⇒羽柴秀長公⇒豊臣秀保公⇒豊臣秀吉公⇒徳川家康


中には浅井氏のように、仕官中に仕えるべき主君を失ってしまったケースも含まれてはいますが、それでも75年の生涯にしては少なくない人数です。

では、高虎公はどんな経験をし何を思い仕官先を変えたのか、順を追って見ていきたいと思います。


1.武辺者と認められて頑張る

最初に仕えた浅井家に足軽として仕え始めると、後に発生した姉川の戦いでは目覚ましい武功を上げ、長政公から感状(現代で言う表彰状)を戴いています。

浅井家のために必死に働いて高虎公、しかし小谷城の戦いにて浅井家は滅ぼされてしまいます。

次に頼った浅井家家臣であった阿閉貞征公や磯野員昌公に仕えますが、やがて近江の国から離れます。


2.過小評価ばかりする上司に愛想を尽かす

近江を離れた高虎公、次に織田信澄公に仕えます。

ところが信澄公、数々の功績を高虎公が上げていたにも関わらず、高虎公が嫌いだという理由だけで加増や評価をしなかったと言われています。

そのため、高虎公は信澄公の元を去ります。


3.正しく評価してくれる上司に巡り合い、心血を注ぐ

次に仕えた羽柴秀長公は、高虎公にとって大変良い上司だったようです。

というのも、仕えてから中国毛利攻め、賤ヶ岳の戦いなど数々の戦に参陣し、特に賤ヶ岳では勝利の立役者となった高虎公に対し、秀長公は多額の加増をしたのです。

その額1300万石、現代にして約1兆3000億円(誤差あり)!秀長公からの評価のほどがお分かりいただけると思います。

その後も戦や城の建設のたびに加増を受け、また高虎公自身も主君とその国を第一に行動していました。

恐らく他がうらやむほどの信頼関係を築いていたのでしょう、秀長公が亡くなった後はその息子である豊臣秀保公に仕えました。


ここまでご紹介してきましたが、今回は少し長くなってしまったため、続きは次回と致しましょう(このブログ初の前後編です!)。

次回までに皆さまにひとつクイズを出したいと思います。

冒頭で載せている旗印、高虎公のものですが、これはいったい何を表していると思いますか?

答えは、次回のブログで合わせてご紹介しようと思います。