三河の武将を天下人に押し上げた暗躍者
長らくご無沙汰しておりました、こんばんは。
前回の更新からちょうど半年、色々ありまして更新をストップしておりましたが、またゆるりと再開してみようと思います。
更新をストップしている間に真田丸ではすっかり関ヶ原が終わってしまいましたが、私、先日初めて関ヶ原の合戦祭りを見に行ってきました。
のろし演舞には少し風が強かったです。
関ヶ原自体は二度目だったのですが、お祭りの時はすごい人手ですね!
とくに今年は、真田丸で石田三成公を演じた山本耕史さんがいらしていたので余計でしょうか。
さて。
久々のブログで誰を取り上げようかと考えてみたのですが、少し変わった経歴を持つこの方にしてみようと思います。
本多正信 公
同じ本多姓ながら、忠勝公は猛将のイメージがありますが、対する正信公はといえば謀略のイメージでしょうか。
ちなみに、忠勝公は正信公のことを大嫌いだったようで、「佐渡の腰抜け」などと呼ばれ、同じ苗字だが全くの無関係だということを公言していたようです。
※佐渡とは正信公のことで、正信公が佐渡守だったので佐渡と呼ばれていました。
まぁ、忠勝公だけでなく、徳川の古くからの家臣には往々にして嫌われていたようで。
というのも、正信公、実は徳川家康公の鷹匠だった時に一向一揆に乗じて三河を出奔しているんです。
1563年に起こった三河一向一揆で、一揆側の武将として戦っていたのですが、家康公が一揆を鎮圧すると、三河を逃れ大和の松永久秀公に仕えたそうです。
その後、松永公の元を去った正信公、各地を転々としたそうです。
一説では本願寺側について、織田信長公と戦っていたという話もありますが、確実な資料は出てきていないようです。
そうして各地で知略を蓄えた正信公、やがて家康公の元へ帰参します。
家康公が小牧・長久手の戦い以降豊臣秀吉公の下に収まってからしばらくは家康公の元で静かに政治手腕を振るっていた正信公。
その彼が表舞台に躍り出たのは、秀吉公が亡くなってからでした。
次の天下人を主君である家康公とするべく、数々の謀略を仕掛けていきます。
前田利家公の死後その息子利長公へ謀反嫌疑をかけ、母である芳春院を江戸へ人質として下らせ、加賀100万石の大大名の牙を抜いてしまいます。
その後も、徳川家と各大名間の婚姻を促進し身内を増やすことにより、家康公を事実上の天下人に推し進めていきました。
その傍若無人ぶりを見逃せず関ヶ原の戦いに挑んだ石田三成公も、ある側面から見たら正信公の掌の上だったのでしょう。
事実、内部分裂により敗退した西軍の中で東軍に寝返った将たちは、正信公の指示により調略を受けていた者が多かったようです。
関ヶ原の戦い後には朝廷に働きかけ、結果家康公は征夷大将軍に就任することとなります。
家康公を天下人にすべく奔走した正信公を家康公も友と呼び、参謀として重用したといいます。
しかし、それほどの評価を得ていながら、正信公の領地は2万2千石だけ、またその息子にも「3万石以上は決して受けるな」と説き続けていました。
過ぎたる加増は人々の疑いを招くと他の将にも忠告していた正信公でしたから、徳川家の重臣ではありますが過去に家康公に刃を向けている自分や息子に対しても不要に他人の反感を買うことの無いように戒めていたのでしょう。
関ヶ原の戦いから16年後、家康公の死去と共に家督を息子に譲り、正信公は隠居します。
そしてその2ヵ月後、家康公の後を追うようにその生涯を閉じました。
秀吉公が亡くなってから天下を治め、江戸幕府の礎を作った家康公。
その影に、策を以て家康公を導く知略家がおりました。
己を律する寡黙な武将
バタバタとしている間に今年も4分の1が終わってしまいました。
大河もとうとう大阪編ということで、今後に期待です♪
さて。
次は誰を紹介しようか、それとも人ではなく他のものにフォーカスしようか、など本当は色々考えていたのですが。
大河を見ていてテンションが上がってしまったため(とても不純な動機!)、この方を紹介してみようと思います。
上杉景勝 公
上杉謙信公の後を継いで当主になった人物ですが、実は養子なのです。
しかも、謙信公が後継ぎを正式に定める前に急死してしまったがために、もう1人の養子である上杉景虎公との相続争いの末に当主となった人物なのです。
この時、景勝公は22歳。当時の方々は、20代前半から波乱万丈ですね。。。
ちなみに景勝公と相続争いをした景虎公は、なんと北条氏康公の七男。つまり、上杉家の人質だったんです。
いずれ、景虎公についてもご紹介できればと思います。
大河では“寡黙で凛としているようで、その実優柔不断でいい顔しい”といったように、とても人間臭さを全面に押し出した描かれ方をしていた景勝公。
(個人的にはとても“らしくていいな!”と好ましく思ったのですが、皆さまは見ていてどうだったのでしょう…?)
では、実際にはどういった人物だったのでしょうか。
こんな逸話があります。
また、勝っていた猿があるとき自分の物まねをして見せた時に笑みを浮かべたのですが、これが生涯でただ一度、家臣が見た笑顔だったという話もあるほど。
では何故そこまで寡黙な人物だったのでしょうか。
ここからは私の憶測になりますが、偉大な先代である謙信公に、少しでも近づこうと努力をされていたのかもしれません。
また、義理の兄弟ながら家督を争い追いつめてしまった景虎公に対して、誠意を見せたかったのかもしれません。
そんな景勝公の努力もあり、上杉家は加増や減封を乗り越え、江戸の幕末まで米沢藩を存続させました。
私は猪突猛進タイプなので、見習いたいと思っています。
短くも強く生きた、大阪方最後の幹
こんばんは。
各地で桜の開花宣言が相次いでいますね。
桜が大好きなので、今年はどこに撮影に行こうか思案中です。
さて。
今回は、前回のちょっと寄り道記事でも話題に上がったこの方をご紹介しようと思います。
豊臣秀頼 公
現在の関ヶ原・・・
幼名を拾丸と名付けられ東西の対立に散っていった、豊臣家最後の武将です。
秀頼公誕生の頃、実は秀吉公は既に関白の座を従兄の秀次公へ譲り、隠居先として伏見城を築城している最中でした。
そんな中、後継ぎとなりうる男児が生まれたため、秀吉公は何としても秀頼公を後継者とするべく模索します。
なんと秀頼公、生後2か月にして秀次の娘と婚約をさせられたのです。
しかし、その後謀反の疑いをかけられた秀次公とその一族が滅ぼされたことにより、この婚約は無効となりました。
※個人的には、この事件が諸大名の豊臣離れを加速させたのではないかと思っています。
その後、以前のブログ↓
でも紹介した千姫と婚姻を結ぶことになるのです。
そうして迎えた1598年8月、天下人であった秀吉公が亡くなります。
この時まだたったの5歳であった秀頼公、綻びゆく豊臣家を再びまとめるには、まだあまりにも幼かったのです。
1600年に起こった関ヶ原の戦い、徳川vs豊臣と思っている方も多いかもしれませんが、実はこの時、東軍も西軍も戦の大義を“秀頼公の御為”としていたのです。
ですので戦の後、秀頼公は家康公を忠義者として労っています。
そう、実は豊臣家と徳川家の仲は、決して悪くはなかったのです。
とはいえ、関ヶ原後に家康公は、豊臣家の領地を独断で各大名に分配して豊臣家の石高を減らしてしまったので、天下を狙っていたのは間違いないのかもしれません。
その後しばらく続いた西の豊臣、東の徳川が崩れ始めたのは、1611年頃のことでした。
二条城にて、ずっと行われていなかった秀頼公と家康公の会見が、とうとう実現したのです。
この頃秀頼公は18歳、190センチを超える大男に成長していたとか。
一説では、この会見の際に秀頼公の武将としての威厳を目の当たりにした家康公が、それ以降豊臣家討伐へと舵を切ったとも言われています。
1614年の大阪冬の陣、そして翌年の大阪夏の陣にて、秀頼公は21歳という短い生涯を閉じました。
大阪冬の陣の折、家康公からの和睦の申し入れを秀頼公は当初、反対していたと言います。
善戦していた冬の陣、もしかしたら秀頼公は、この好機を逃せば豊臣存続の道はないと、考えていたのかもしれません。
1980年に行われた大阪城三の丸跡の発掘調査で、人の手によって埋葬されたらしき3人と馬1頭の頭蓋骨が見つかっています。
内1人は、20歳前後、顎に介錯の際についたと思われる傷があったそうです。
幼少の頃から大きな決断を迫られ続けた秀頼公。
一体何を思い生き抜いたのか、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
子供の健やかな成長を願ってつけられた呼び名
<去年あきる野で撮影したハクモクレン。そろそろ今年も咲く季節です。>
ちなみに私はというと、小学生の頃から悩まされている花粉と戦っております。
さて。
最近はずっと一人の人物にスポットを当ててご紹介してきましたが、ここでちょっと小休止。
こんな話題を取り上げてみようと思います。
幼名って、何?
平安から江戸の頃、武士や貴族に生まれた男性は、幼少期と成人後で名前が違ったことをご存じの方も多いかと思います。
この幼名、有名なところでいうと、徳川家康公の「竹千代」、織田信長公の「吉法師」、前田利家公の「犬千代」などでしょうか。
何故、幼少期と成人後で名前が違ったのでしょうか。
それには、当時と現代とで、子供が無事に成人を迎える確率があまりにも違ったためです。
例えば、戦に巻き込まれる。あるいは、病気で命を落とす。またあるいは、飢饉などで餓えてしまう。
生まれた男の子は大事な後継ぎ候補、何とか成人まで無事に育ってもらわなくては困ります。
そこで、元気に無事に、すくすくと成長するよう願いを込められた幼名がつけられたわけですね。
そんな幼名、実はちょっとした法則があったりなかったりするのです。
1.〇〇千代
今でも残る「千代」という言葉には“長い年月”という意味がありますね。
つまり、生まれた子が健康に長生き出来るよう、末永い幸福を願ってつけられた名前です。
例を挙げると、先にも記載した、「竹千代」や「犬千代」、他に上杉謙信公の「虎千代」などでしょうか。
ちなみに、徳川家の「竹千代」や前田家の「犬千代」は、代々嫡子に受け継がれたそうです。
2.〇〇丸
丸というと音感が可愛いという印象を持つのですが(私だけでしょうか…)。
実はこれ、“おまる”、つまりトイレを表しているのです。
何故大切な子にトイレなんてつけたのかというと、当時は病気や災いは鬼がもたらすと信じられていました。
その鬼は悪臭や不浄なものを嫌うとされていたため、魔除けの意味を込めて名付けられていました。
例を挙げると、伊達政宗公の「梵天丸」や、毛利元就公の「松寿丸」などでしょうか。
3.独自をゆく
もちろん、皆が皆「千代」や「丸」をつけていたわけではありません。
先に挙げた「吉法師」や、石田三成公の「佐吉」、直江兼次公の「与六」など。
いずれにしても、子を思って親が名づけるのは、今も昔も変わりませんね。
ところで。
先日のブログで紹介した千姫の旦那様に当たる、豊臣秀頼公。
幼名はなんと、「拾丸(ひろいまる)」。
まるで拾ってきたような名前!と思うかもしれませんが、実はそうなのです。
秀吉公は最初の嫡男を病で亡くしており、「拾ってきた子は強く育つ」という言い伝えから、秀頼公に「拾」の文字を付けたそうです。
しかも、つけただけではなく、実際に一度、まだ赤子であった秀頼公を外に放置し、再度抱き上げてまで強く生きることを願ったとか。
それが功を奏したのかはわかりませんが、拾丸はすくすくと成長し、一説には190センチにもなる大男になったと言われています。
名前って、やっぱり大事なんですね。
自分の名前について、一体どんな理由で付けられたのか、考えてみるのも面白いかもしれません。
絆を裂かれてもしなやかに生きた女性
大阪城落城の際、捉えられた中には秀頼公と側室の間に生まれた幼い娘・後の天秀尼がいました。
一度足を運んでみては如何でしょうか。
白餅大名は食い逃げ犯!?戦国きっての転職男 後編
4.時代の先を読み己の行く末を見極める
ところが。
最後に、前回のクイズの答え合わせを。
高虎公は、以前に紹介した武将との因縁のエピソードもあったりするので、また折を見て紹介したいと思います。
白餅大名は食い逃げ犯!?戦国きっての転職男 前編
こんばんは、今回はあまり間を開けずに登場です(個人的には…)。
大雪のニュースを連日目にしますが、皆様のところは大丈夫でしょうか。
さて。
みなさん、武士というとどういう人物イメージを持っているでしょうか。
一般的には、この人と決めた主に一生ついていく…というイメージを持っている方も多いかと思いますが、それは果たして…?
今回は、類稀なる戦国の転職男についてご紹介してみようと思います。
藤堂高虎 公
近江にあった村の土豪でありながら没落し農民として生活していたところから城持ち大名までのし上がった本物の実力者です。
ではどのように出世していったのかと言えば、実は高虎公、その生涯で8人も主君を変えています。
○高虎公歴代の主君○
浅井長政公⇒阿閉貞征公⇒磯野員昌公⇒織田信澄公⇒羽柴秀長公⇒豊臣秀保公⇒豊臣秀吉公⇒徳川家康公
中には浅井氏のように、仕官中に仕えるべき主君を失ってしまったケースも含まれてはいますが、それでも75年の生涯にしては少なくない人数です。
では、高虎公はどんな経験をし何を思い仕官先を変えたのか、順を追って見ていきたいと思います。
1.武辺者と認められて頑張る
最初に仕えた浅井家に足軽として仕え始めると、後に発生した姉川の戦いでは目覚ましい武功を上げ、長政公から感状(現代で言う表彰状)を戴いています。
浅井家のために必死に働いて高虎公、しかし小谷城の戦いにて浅井家は滅ぼされてしまいます。
次に頼った浅井家家臣であった阿閉貞征公や磯野員昌公に仕えますが、やがて近江の国から離れます。
2.過小評価ばかりする上司に愛想を尽かす
近江を離れた高虎公、次に織田信澄公に仕えます。
ところが信澄公、数々の功績を高虎公が上げていたにも関わらず、高虎公が嫌いだという理由だけで加増や評価をしなかったと言われています。
そのため、高虎公は信澄公の元を去ります。
3.正しく評価してくれる上司に巡り合い、心血を注ぐ
次に仕えた羽柴秀長公は、高虎公にとって大変良い上司だったようです。
というのも、仕えてから中国毛利攻め、賤ヶ岳の戦いなど数々の戦に参陣し、特に賤ヶ岳では勝利の立役者となった高虎公に対し、秀長公は多額の加増をしたのです。
その額1300万石、現代にして約1兆3000億円(誤差あり)!秀長公からの評価のほどがお分かりいただけると思います。
その後も戦や城の建設のたびに加増を受け、また高虎公自身も主君とその国を第一に行動していました。
恐らく他がうらやむほどの信頼関係を築いていたのでしょう、秀長公が亡くなった後はその息子である豊臣秀保公に仕えました。
ここまでご紹介してきましたが、今回は少し長くなってしまったため、続きは次回と致しましょう(このブログ初の前後編です!)。
次回までに皆さまにひとつクイズを出したいと思います。
冒頭で載せている旗印、高虎公のものですが、これはいったい何を表していると思いますか?
答えは、次回のブログで合わせてご紹介しようと思います。